大島渚監督作『少年』の元ネタ:1966年「当たり屋家族」事件の全貌

1969年に公開された大島渚監督の傑作映画『少年』は、生活のため、そして両親のために「当たり屋」という危険な犯罪に手を染める10歳の少年の痛ましい姿を描き、観客に深い衝撃を与えました。この物語はフィクションではなく、映画公開の3年前、1966年に日本を震撼させた実際の事件を題材にしています。子どもを金銭目的で意図的に交通事故に巻き込ませたこの悪質な犯行は、当時、社会に大きな波紋を広げました。本稿では、この「当たり屋家族」事件の背景と詳細に迫ります。

「当たり屋家族」の誕生と社会背景

映画『少年』は、監督の大島渚と脚本の田村孟が事件を綿密に取材して制作され、設定や物語はほぼ史実に基づいています。家族の中心人物である大森武夫(劇中名)は、1922年高知県生まれ。幼少期に父を失い、17歳で大阪に出て日雇い労働者となるも窃盗で少年審判所に入所。第二次世界大戦に出征し負傷兵として終戦を迎えました。戦後、医療品の行商で生計を立て、1953年に結婚。後に当たり屋の実行役となる敏男は1956年に誕生しました。

一方、劇中の谷口竹子を演じた女性は1939年大阪生まれで、幼少期から家庭を転々とする不安定な生活を送りました。1958年に結婚し男児をもうけますが、1959年、勤めていたキャバレーで客として来店した大森と出会い、深い関係に。彼女は夫と子どもを捨てて大森との生活を選び、1963年には大森との間に新たな男児(劇中名チビ)を出産。大森の正式な妻は病気で実家に戻っており、敏男は大森が引き取って育てていました。一家は複雑な家庭環境を抱えていました。

定職に就くことが困難だった大森が「当たり屋」行為を思いついたのは、1966年初頭のことです。当時、日本は高度経済成長期で乗用車が急速に普及する一方、道路インフラや車両の安全装置は不十分でした。さらに、ドライバーの交通安全意識も低く、飲酒運転が横行するなど交通事故が全国各地で頻発。このような社会背景が、大森一家が危険な犯罪に手を染める温床となったのです。

車に衝突される子どものイラスト。当時頻発した交通事故の危険性を示す車に衝突される子どものイラスト。当時頻発した交通事故の危険性を示す

大森一家は、時には偽装工作のために事故前から息子に打撲傷を負わせるなど、非常に悪質な手口を用いました。一度の示談金が10万円にも上ることもあったと報じられています。子どもを危険に晒し、その幼い命を金儲けの道具としたこの事件は、当時社会に大きな衝撃と倫理的な問いを投げかけました。

「当たり屋家族」事件は、高度経済成長期の影に隠れた貧困と、倫理観の欠如が引き起こした悲劇的な実話として、日本の犯罪史に深く刻まれています。大島渚監督の映画『少年』は、この衝撃的な事件を少年の視点から描くことで、社会のひずみと人間の尊厳を問いかけました。この事件は、単なる犯罪としてだけでなく、当時の社会情勢と家族のあり方を考察する上で、現代にも通じる重要な教訓を残しています。