1987年槍ヶ岳遭難:テレビ報道が広げた衝撃と“消えた登山者”の謎

1987年正月、日本の登山史に深く刻まれることになる北アルプス槍ヶ岳での痛ましい遭難事故が発生しました。熟練の登山者3名が猛吹雪の中、消息を絶ち、数日にわたる連絡不通の後、捜索活動が開始されました。彼らがどこに消えたのかという「大きな謎」に直面する山仲間や家族の苦悩が続く中、この未曾有の事態はついにメディアを通じて社会に報じられ、日本中に衝撃を与えました。本稿では、泉康子氏の著書『いまだ下山せず! 増補改訂版』から一部を抜粋し、遭難事件が初めて公に伝えられた際の状況と、それによって引き起こされた関係者たちの動揺に焦点を当てます。

1987年正月、槍ヶ岳で消息を絶った3名の登山者たち

北アルプスの名峰、槍ヶ岳の頂を目指した3人の男性、三枝悦男さん(当時30歳)、宮崎聡司さん(28歳)、橋本正法さん(25歳)は、1987年正月、その雄大な冬山で消息を絶ちました。東京都清瀬市に拠点を置く「のらくろ岳友会」に所属する彼らは、ベテランのリーダーである三枝さんを中心に、過酷な冬の槍ヶ岳に挑みましたが、猛烈な吹雪の中で行方不明となり、下山予定日の1月2日を過ぎても連絡が途絶えました。彼らが目指した壮大な景色とは裏腹に、雪深い山中で彼らを襲ったであろう状況は、想像を絶するものがありました。

猛吹雪の北アルプス槍ヶ岳を思わせる冬山の風景猛吹雪の北アルプス槍ヶ岳を思わせる冬山の風景

テレビニュースが報じた“のらくろ岳友会”遭難の衝撃

1月5日の昼12時、テレビニュースは初めて、のらくろ岳友会3名の遭難という衝撃的な事実を全国に伝えました。「東京都清瀬市に事務所を持つ、のらくろ岳友会の3名は、三枝悦男さんをリーダーに槍ヶ岳をめざして入山したまま、下山予定の1月2日を過ぎても下山せず、仲間4人が捜索にむかいました」という報道は、正月気分が抜けきらない多くの人々の日常に、突然として飛び込んできました。友人たちは、それぞれの知人を思い浮かべながら、「まさか、あの宮崎ではないだろうな」「橋本? あいつ、山やってたのか?」と、血の気が引く思いで立ち尽くしました。この報道は、単なるニュースとしてだけでなく、多くの人々の心に深い不安と問いを投げかけることとなったのです。

宮崎聡司氏の「今回は、緊張してる」:残された言葉の重み

行方不明となった宮崎聡司さんの同僚である本田技研朝霞研究所の河崎豊和さんは、ニュースを聞き、仕事納めの日の宮崎さんとの会話を思い出して立ち尽くしました。社員食堂の行列で「やあ、宮崎君、調子はどーお?」と声をかけた河崎さんに対し、宮崎さんは「今回は、緊張してる」と答えたのです。前年、一昨年と2度にわたり正月に槍ヶ岳登頂を試みては敗退していた宮崎さんにとって、今回にかける気迫は尋常ではなく、その言葉には、ただならぬ決意と重みが込められていました。この言葉は、彼の山に対する真摯な姿勢と、来るべき挑戦への緊張感を如実に物語っており、後に関係者の間で語り継がれることになります。

殺到する見舞いと問い合わせ:広がる不安の波紋

テレビ報道が始まると、のらくろ岳友会の事務所がある清瀬市の杉本茂さんの自宅と、神奈川県藤沢市にある三枝さんの留守宅には、3人の友人、知人、会友からの見舞いや問い合わせの電話が殺到しました。人々は、自分たちの知る人物がこのような過酷な状況に置かれていることに動揺し、安否を気遣いました。無事を願う声とともに、事態の深刻さを探る問い合わせが殺到する状況は、遭難事件が個人の悲劇に留まらず、多くの人々の心に不安と衝撃を広げていることを示していました。

結論

1987年正月、北アルプス槍ヶ岳で発生した3名の登山者行方不明事件は、テレビ報道を通じて全国に伝えられ、多くの関係者に深い衝撃と動揺を与えました。宮崎聡司さんの「今回は、緊張してる」という言葉に象徴されるように、彼らの山にかける情熱と、それゆえの困難さが浮き彫りになりました。この報道をきっかけに、事態は個人的な捜索活動の枠を超え、多くの人々の注目を集めることとなり、遭難事件の「大きな謎」が社会的な関心事へと発展していく序章となったのです。


参考文献

  • 泉康子. (1997). 『いまだ下山せず! 増補改訂版』. 宝島社文庫.