そりゃ世界で活躍できないワケだ!「文科省のグローバル人材像」にため息しか出ない


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● グローバル人材とは そもそも何なのか?

 長年にわたり、日本のビジネスシーンでは「グローバル人材」の出現が待望されている。「グローバル人材こそが日本を救う」という論調の記事を目にすることも珍しくない。だが、その「グローバル人材」とは具体的に何を指すのか?

 文科省の定義によれば、「日本人としてのアイデンティティや日本の文化に対する深い理解を前提として、豊かな語学力・コミュニケーション能力、主体性・積極性、異文化理解の精神等を身に付けて様々な分野で活躍できる人材」(第二期教育振興基本計画〈平成25年度〜29年度〉)らしい。

 僕はこれを聞いて、思わずため息が出た。これじゃあハードルが高すぎやしないか?そもそも、こんな条件をすべて満たす日本人が、人口の何%いるだろう。

 さらに気になるのは「日本人としてのアイデンティティや日本の文化に対する深い理解を前提として」という部分だ。日本で日の目を見られず、新天地を求めて海外で成功した例は少なくない。

 たとえば、世界的指揮者・小澤征爾。若くしてNHK交響楽団の指揮者に抜擢されながらも年長の団員たちに疎まれ、ついには日本を去り、海外でその才能を開花させた。

 彼らの軌跡は、「日本で成功してから世界へ」という優等生的な道筋とは大きく異なる。むしろ、彼らは日本の枠組みに馴染めずに飛び出した「異端児」だったのだ。

 科学の分野でも事情は似ている。ノーベル賞を受賞した日本人物理学者の多くは、アメリカで研究を行っている。日本の官僚的なシステムが才能の芽を潰してしまう例は、少なくないのではないか。

● 日本には収まりきらない悪ガキが 真のグローバル人材になりえる

 では、どんな人材が結果として「グローバル人材」になり得るのか?

 僕の答えは一貫している。それは「悪ガキ」タイプだ。

 ここでいう「悪ガキ」とは、好奇心と情熱を武器に、自分の殻を破ることを恐れない人間のことだ。

 彼らは、日本の厳しい規則や慣習に馴染めず、むしろその枠の外でこそ力を発揮する。彼らを衝き動かすのは、金銭や地位ではない。挑戦そのもの、そして大きな夢の実現こそが、彼らの原動力になっている。

 これは決して新しい話ではない。明治維新を成し遂げた志士たちこそ、「悪ガキ」の代表例だった。外国船で密航して海外に渡る大胆な行動力――彼らの背中を押したのは、ルールや慣習を打ち破る情熱と、規格外の行動力だった。

 いまの日本にも、こうした「桁外れ」の人物が求められている。

 若い人たちが「グローバルに挑戦したい」と言うと、動機が漠然としていたり、ありふれていることがある。だが、僕はそんな動機がどんなに陳腐に聞こえようとも、決して否定しない。むしろ、その一歩を踏み出す勇気を心から応援したいと思っている。

 なぜなら、グローバルに飛び出すうえで重要なのは、動機の純粋さや高尚さではなく、情熱と行動力だからだ。

 グローバル人材を育てるとは、規則や慣習にとらわれない「悪ガキ」のような若者の特性を理解し、彼らの挑戦を後押しすることにほかならない。

 いまの日本に必要なのは、「当たり前」の枠を超えた、常識に収まらない人材なのだ。



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