武田鉄矢が語る、戦場から生還した父の「見えない傷」と家族への影響

歌手・俳優の武田鉄矢さんは、少年時代に常に不機嫌だった父の姿に悩み続けたという。時を経て、武田さんは父が背負っていた「見えない傷」の存在を知る。戦争は戦場での死だけでなく、生還者とその家族の心にも癒えない痛みを刻み込む。本稿では、武田鉄矢さんの父が抱えた戦争のトラウマと家族への影響を掘り下げる。

軍隊に深く染まった父と戦後の不機嫌

武田鉄矢さんは父を「大っ嫌いでした」と語る。父はギラギラした目で大声を出し、恫喝的な口調だったという。復員兵で骨の髄まで軍隊に染まった父は、戦後は不機嫌に生きていた。フィリピンと中国北部戦線での経験を持ち、自身の連隊を「日本一、勇猛果敢な連隊」と自慢していた。

戦場の「うめき」が残した深き傷痕

父は酒を飲むたびに、戦場体験を「語る」というよりも「うめき」のように漏らしていた。フィリピンでの上陸作戦で連隊の先頭を走ったこと、マッカーサーを探してバナナ畑をさまよったことなど、断片的な記憶が混沌と語られた。しかし、やがて圧倒的な米軍の逆襲が始まり、父は想像を絶する悲惨な経験をしたのだろう。ある時、川を渡る最中に流れ着いた戦友の遺体を踏んだ記憶は、「靴が腹の中に埋まったたい」と博多弁で表現されるほどの衝撃だったという。

捕虜になってからは、ネギばかり食べさせられた経験から、料理にネギが入っていると激怒し、母を怒鳴りつけることもあった。「中国の匪賊を日本刀で何人か斬った」と自慢する父の姿は、武田さんにとって嫌悪の対象だった。母は静かに首を振るばかりで、父と周囲には明らかな「断層」が存在していた。父の夢は大日本帝国の勝利であり、敗戦によってアメリカの時代が到来したことへの不満と怒りが渦巻いていた。武田さん曰く、父の戦後は「皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていった」かのようだったという。

歌手・俳優の武田鉄矢さん(2019年)歌手・俳優の武田鉄矢さん(2019年)

戦後日本の家庭に生じた価値観の「断層」

ところが、戦後の武田家では、父とは異なる価値観が共存していた。母は進駐軍の将校の家でベビーシッターとして働き、当時としては大金である一晩1ドルを稼いでいた。母は「軍部は威張るばかり。それに比べてアメリカの将校さんはマナーが良くて。負けるはずたい。負けてよかったったい」と語り、アメリカびいきは相当なものだった。戦時中の日本軍に対する不快な記憶が、その根底にあったのだろう。

次男である武田さん自身もアメリカが大好きで、戦争ドラマ『コンバット!』のサンダース軍曹に夢中だったという。しかし、その姿を見た父は「こんなうまくいくか、バカちんが!」や「鉄砲の音が1発でも鳴ったら、人間動かなくなるったい」と苛立ちを隠さずに吐き捨てた。戦争体験の有無が、家族内で価値観の大きな隔たりを生じさせていたことが浮き彫りになる。

武田鉄矢さんが語る父の物語は、戦争が個人、そしてその家族の精神にどれほど深い傷を残すかを鮮やかに描き出している。戦場の過酷な体験は、帰還兵の心に消えることのないトラウマとなり、彼らの戦後の人生、さらには家族関係にも複雑な影を落とし続ける。父の不機嫌な言動の背景にあった「見えない傷」は、日本が経験した戦争の痛みが、単なる歴史の出来事ではなく、現代にも通じる人々の心の奥底に刻まれた現実であることを改めて我々に示唆している。この個人的な体験談は、戦争の記憶と向き合い、その影響を理解することの重要性を訴えかける強力なメッセージとなるだろう。

参考文献

  • 大久保真紀・後藤遼太『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)