「小泉旋風」はいかにして生まれたか?2001年自民党総裁選の舞台裏

2001年、自民党総裁選は日本政治に大きな波紋を広げました。当時、3度目の挑戦であった小泉純一郎氏が、圧倒的な支持を得て総裁に選出され、その後の内閣総理大臣就任へと繋がります。世にいう「小泉旋風」は、既存の政治手法とは一線を画した彼独自の選挙戦略によって巻き起こされました。本記事では、作家・大下英治氏の著書『自民党総裁選 仁義なき権力闘争』(宝島文庫)から、この歴史的な総裁選の舞台裏と、小泉氏がいかにして国民的人気を博したのかを深掘りします。

2001年自民党総裁選の幕開けと立候補者たち

平成13年4月11日、自民党の両院議員総会が開催され、総裁選のルールが変更されました。古賀誠幹事長率いる執行部は、都道府県連の持ち票を従来の各1票から各3票へと拡大し、立候補に必要な国会議員の推薦人も30人から20人に削減することを提案。これらの執行部案は、採決もなく了承されました。当時の森派に所属していた高市早苗氏は、このままでは橋本龍太郎氏が勝利すると考えていたと言います。

翌12日には、橋本派の橋本龍太郎氏、江藤・亀井派の亀井静香氏、河野グループの麻生太郎氏、そして小泉氏の計4人が立候補を届け出ました。特に亀井氏は、かつて小泉氏と同じ清和会に所属していましたが、平成10年9月に清和会を離脱。その後、平成11年3月には江藤隆美氏ら旧渡辺派と合流し、江藤・亀井派(志帥会)の会長代行を務めるなど、党内における独自の立場を築いていました。この多様な顔ぶれの中で、小泉氏の異色な戦略が注目されることになります。

第87代内閣総理大臣を務めた小泉純一郎氏第87代内閣総理大臣を務めた小泉純一郎氏

金をかけない「街頭演説一本」の戦略

それぞれの候補者には、選挙対策本部用に党本部5階の一室が割り当てられました。小泉氏の選対は508号室でしたが、常に人が集まっていたのは小泉選対だけでした。他の3陣営が赤坂プリンスホテルやキャピトル東急ホテルに選対の部屋を借りて実質的な拠点としていたのに対し、小泉陣営は、小泉氏自身が選挙資金を出さなかったため、選対本部は508号室のみで運営されていました。

小泉氏は、この総裁選において軍資金を全く拠出せず、そのため小泉選対の議員たちは、パンフレットの郵送費や電話作戦の電話代金に至るまで、それぞれが自腹を切って工面しました。出馬を決めた際、秘書の飯島勲氏が「党員名簿を用意しますか?」と尋ねたところ、小泉氏は「党員名簿はいらない。街頭演説一本でいこう。チラシもつくらなくていい」と答えたといいます。この言葉に飯島氏は、「小泉さんは、余計なことはせず聴衆の心にひたすら訴えかければいいと考えている。それでも勝てると踏んでいるのか」と、その強い信念を感じ取ったのでした。彼のこの「金なき戦い」が、国民の共感を呼び、党内の既成勢力への反発と相まって、「小泉旋風」を巻き起こす原動力となったのです。

小泉純一郎氏が2001年の自民党総裁選で示した、既存の常識を覆す「街頭演説一本」という戦略は、多額の資金を投じる従来の選挙戦とは一線を画しました。党内での「嫌われ者」という側面がありながらも、国民の直接的な支持を求める姿勢が、「小泉旋風」として結実し、最終的に彼を日本のリーダーへと押し上げたのです。この選挙は、政治家と有権者の関係、そして選挙運動のあり方に、新たな可能性を示唆する歴史的な一例として、今もなお語り継がれています。