佐賀県で毎年11月上旬に開催される「唐津くんち」は、その勇壮な曳山行事で知られる伝統的な祭りです。しかし、今年は祭りの喧騒の中で予期せぬ珍事が発生し、地元住民の間で大きな話題となりました。職業不詳の39歳男性が無銭飲食で逮捕され、「唐津くんちの時は無料だと思った」と供述したという、にわかには信じがたい出来事です。
「ふるまい」の誤解が生んだ無銭飲食
日本の祭りには、地域の人々が自宅を訪れた客をもてなす「ふるまい」という温かい習慣が古くから存在します。かつては、見知らぬ人でも気軽に立ち寄り、飲食を共にする光景が見られた時代もあったかもしれません。しかし、現代において「ふるまい」は、その家の知人や、知人が連れてきた人に限定されるのが一般的です。さらに、訪問時には手土産を持参するのが礼儀とされており、無償で飲食を提供する飲食店はまず存在しません。むしろ、祭り期間中は「おくんち価格」と称して通常よりも割高な料金を設定する店もあるほどです。
この男性は3600円のワインを注文し、会計をせずに店を出ようとしたところを店主に見咎められ、通報により警察に逮捕されました。財布には現金が一文もなく、最初から無銭飲食を企図していたことが明らかになりました。この事件は、普段大きな事件が少ない唐津の街で、地元住民が「3600円のワインといったらあの店だな」などと店の特定に躍起になるほどの大きな関心を呼びました。男性がもし「祭りの雰囲気に浮かれて、酔った勢いで頼んでしまったが、金がない」と素直に話していれば、人々の呆れ度合いも少しは軽減されたかもしれません。
世界最大の花、ラフレシア
42年前の「フラレシア」と編集部への電話
この奇妙な弁明を聞いて、筆者は42年前の自身の体験を思い出しました。小学4年生の頃、学習雑誌で探偵漫画を読んでいた際、巨大な花のイラストに「世界最大の花・フラレシア」という記述を見つけたのです。当時、魚や昆虫、花の名前を覚えるのが好きだった筆者は、すぐに「世界最大の花はラフレシアのはず」と疑問を抱きました。インターネットが普及していなかった時代、その場で確認する術もなく、「ラフレシアよりも大きいフラレシアが発見されたのか?」という知的好奇心に駆られ、思い切って雑誌の編集部に電話をかけました。
電話に出た男性に「△月号の×ページにフラレシアとありますが、ラフレシアよりも大きい花ですか?」と尋ねると、男性は一旦保留した後、「最大の花はご指摘の通りラフレシアですが、作中ではフラレシアとしています。フィクションなので」と回答しました。電話を切った後も、筆者はその説明に納得がいきませんでした。なぜなら、作品の舞台は「イギリス・ロンドン」と明確に書かれており、「フィクションなので」という理由で花の名称だけを架空のものにするのは、どう考えても不自然だったからです。「ギイリス」でも「ドンロン」でもないのに、なぜ花の名前だけが異なるのかという疑問が残りました。
漫画家まんきつ氏による独特のイラストレーション
編集者の視点から見る「フィクションなので」の真意
後に自身も編集者としての経験を積んだ筆者は、当時の編集部の対応の裏側を推察するに至りました。電話に出た男性は、おそらく大学生のアルバイトだったのでしょう。面倒な問い合わせが来た場合、社員に指示を仰ぎ、もし相手が子どもやあまり詳しくなさそうな人物であれば、適当にあしらうように言われていたのかもしれません。
社員の編集者が「しまった、誤植だ。まあ相手は子どもだろうから、『作品の中ではフラレシアにした』とでも言っておけ」と指示した光景が目に浮かびます。このような不適切な言い訳は、決して好ましいものではありません。人間は誰しも間違いを犯すものです。筆者自身も、寄生虫アニサキスを「アニキサス」と呼び、アフリカ南部のエスワティニ王国を「エスティワニ」と言い間違え、流行のChatGPTを「ChatGTP」と誤って発音してしまうことがあります。健康診断でお馴染みのγ-GTPが頭にあるため、ついAIの名前を間違えてしまうのです。しかし、他者から間違いを指摘された際には、「あ……」と素直に認めるのが最も適切な対応だと考えます。
誰もが間違いを犯す、そしてどう対応すべきか
唐津くんちでの無銭飲食事件の男性も、筆者が子どもの頃に経験した「フラレシア」の誤記への対応も、そして筆者自身の些細な言い間違いも、根本には「間違い」とその「対応」という共通のテーマがあります。人間は不完全な存在であり、誤解したり、記憶違いをしたり、知識が不正確であることは珍しくありません。重要なのは、その間違いをどのように受け止め、対処するかです。
素直に非を認め、誤りを正す姿勢は、周囲からの信頼を得る上で不可欠です。不自然な弁明や曖昧なごまかしは、かえって事態を悪化させ、信頼を損なう結果に繋がりかねません。正直さと謙虚さこそが、社会生活における円滑なコミュニケーションと健全な関係性を築く上で最も大切な教訓と言えるでしょう。
著者プロフィール
中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者。博報堂で企業のPR業務に携わり、2001年に退社。雑誌のライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』など。
まんきつ
1975年埼玉県生まれ。日本大学藝術学部卒。ブログ「まんしゅうきつこのオリモノわんだーらんど」で注目を浴び、漫画家、イラストレーターとして活躍。著書に『アル中ワンダーランド』(扶桑社)『ハルモヤさん』(新潮社)など。
出典
「週刊新潮」2025年11月27日号 掲載
新潮社





