太平洋戦争末期の特攻:北九州への原爆投下を阻止した「屠龍」隊員の決死行と模擬原爆の知られざる歴史

太平洋戦争の終結が目前に迫る中、米軍は北九州への原爆投下を綿密に計画していました。この恐るべき計画を阻止するために、ある「屠龍」の搭乗員たちが決死の覚悟で貢献したと言われています。敵機B-29が日本の空を悠然と舞う中、若き隊員たちは自らの命を賭して体当たり攻撃を敢行。この壮絶な抵抗に米軍は怯み、原爆投下地点などの計画を再検討せざるを得なかったとされます。本記事では、日本を守るために命を捧げた隊員たちの最期と、戦後に長く伏せられてきた「模擬原爆」投下の真実を深く掘り下げます。

決死の「体当たり攻撃」:北九州上空の激闘

1944年8月20日、両翼にエンジンを搭載した日本陸軍の二式複座戦闘機「屠龍」の編隊が、山口県下関市の小月飛行場から離陸しました。その目的は、北九州近くの空域に姿を現した米軍のB-29爆撃機編隊を迎撃することでした。高度7000メートル上空を堂々と侵入し、日本本土の領空をわがもの顔で飛ぶB-29のパイロットは、「この高度で戦える日本の戦闘機は存在しない」と慢心していたと伝えられています。間もなく爆弾投下地点に到達する、そう確信した次の瞬間、前方から猛スピードで迫る一機の「屠龍」の機影を視認しました。

「屠龍」がB-29に体当たり攻撃を仕掛けるイメージ「屠龍」がB-29に体当たり攻撃を仕掛けるイメージ

「屠龍」は銃撃を仕掛けますが、弾丸は機体をかすめる程度で損傷は軽微でした。しかし、B-29パイロットが「やはり大したことはない」と思った次の瞬間、彼らを戦慄させる光景が展開されます。「屠龍」はさらに速度を上げ、コックピットの目前まで急接近したのです。目の前に迫る「屠龍」操縦士の、怒りに燃え滾り、一片の恐れも知らないかのような眼を見て、B-29のパイロットは戦慄しました。「機関砲の銃撃を外してしまった。連射はできない。眼下の北九州市民の命を護るため、このままB-29を行かせるわけにはいかない」。

とっさにそう判断した「屠龍」の前席操縦士、野辺重夫軍曹は、後部座席に座る相棒、高木伝蔵兵長に「ゆくぞっ、高木!」と声をかけました。高木兵長は「了解です、野辺軍曹!」と応じ、フルスロットルで双発エンジンの推進力を限界まで絞り出した「屠龍」は、巨大な“超空の要塞”へと一直線に突っ込みました。両機は空中で砕け散り、野辺軍曹と高木兵長は、自らの命を懸けた体当たりの結末を知ることはできませんでした。しかし、体当たりを受けたB-29は空中で爆発炎上し、砕けた機体の破片が後続のB-29に衝突。2機のB-29が八幡の地上へと墜落していったのです。この壮絶な出来事は1944年8月20日のこと。戦史には、これが初となるB-29への日本戦闘機の「体当たり=特攻」だと記録されています。この特攻で2人の若者が北九州上空で命を散らしましたが、これは初の特攻隊「神風特別攻撃隊」が編成され、出撃する2ヶ月も前のことでした。

隠蔽された「模擬原爆」投下の真実

時が流れ、1945年7月29日午前8時半過ぎ、米軍のB-29が旧制京都市立第二商業学校の生徒たちが勤労していた舞鶴海軍工廠の施設を急襲しました。この時、B-29が投下したのは、通称「ファットマン」と呼ばれた長崎型原爆と同じ型で、外装がオレンジ色に塗装された模擬原爆、通称「パンプキン」でした。8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下する直前、米軍は虎視眈々と“本番準備”を進めていたのです。そのテストともいえる空襲を京都の舞鶴海軍工廠をターゲットに行った結果、この模擬原爆の投下によって、勤労中の京都二商の生徒を含む約100人の命が奪われました。米軍による模擬原爆投下の事実は戦後、長い期間にわたって伏せられていた、知られざる歴史の一つです。

結び

太平洋戦争末期、北九州の空で繰り広げられた「屠龍」隊員たちの決死の「体当たり攻撃」は、日本の都市が原爆投下の標的となるのを一時的にせよ阻止した可能性がある、壮絶な犠牲の物語です。野辺重夫軍曹と高木伝蔵兵長の勇気ある行動は、多くの無辜の市民を救うためのものでした。そして、広島と長崎への原爆投下を前にして行われた「模擬原爆」のテスト投下は、戦争の非情さと、その陰に隠された多くの悲劇を物語っています。これらの歴史は、単なる過去の出来事ではなく、平和の尊さと命の価値を深く問い直すための重要な教訓として、現代に生きる私たちに伝えられるべきものです。