近年、日本全国でクマによる人身被害が過去最多を記録し、社会全体で「駆除」を求める声が日増しに高まっています。しかし、世界自然遺産である北海道・知床半島では、ヒグマとの共生を長年掲げ、むしろ「保護」を訴える根強い主張が存在します。知床の人々が抱く独特の自然観と、クマ管理を巡る葛藤について、ノンフィクションライター中村計氏がその真意に迫ります。
迫り来るクマ禍：全国的な駆除論と知床の「共生」
全国各地でクマによる人身被害の報告が相次ぐ中、多くの地域で箱わなを用いた捕獲・駆除が実施されています。ところが、2005年に世界自然遺産に登録された知床半島では、箱わなによる捕獲を「恥」と捉える独特の考え方が根付いています。ここは世界的にも稀なヒグマの高密度生息地であり、どこよりも早くからクマとの共生を実践してきた、いわば「クマ愛」が最も深い地域です。
知床の野生動物管理を担う知床財団の事務局長、玉置創司氏は、世界遺産エリアでの箱わな使用について強い懸念を示します。「世界遺産の根拠となるOUV（顕著で普遍的な価値）を崩すような、餌で引き寄せて無差別にクマを獲るような方法は、クマの命を尊重しないやり方であり、大きな問題になるでしょう」と語り、箱わなの使用が知床の価値を損なう可能性を指摘しています。
「箱わなは悪」：命の尊重か、切迫した現実か
しかし、このような知床のクマに対する姿勢は、全国的な被害の現状においては「生ぬるい」と感じられることも少なくありません。実際に知床でクマの駆除に携わった経験者は、財団の「箱わな＝悪」という考え方に対し、強い憤りを表明しています。市街地に出没するクマに対し、日没後の銃の使用が制限される中で箱わなの使用を進言しても、財団側から猛反発を受けた経験があると言います。
知床が箱わなの使用に消極的な背景には、クマへの深い敬意があります。箱わなにかかったクマは、檻を壊そうと必死にもがき、歯が折れたり爪が剥がれたりするほどのダメージを負うことがあります。長時間放置されればその傷はさらに深まり、その残酷さを避けるべきだという思いが根底にあります。また、箱わなは銃による駆除と異なり、標的以外のクマを誤って捕獲するリスクも伴うため、罪のないクマを傷つけることへの抵抗感が強いのです。
箱わなによるクマ捕獲に消極的な知床の様子
「クマの恨みを買う」：賢い動物との共存の難しさ
60年以上にわたり北海道の野生動物を見つめてきた獣医・動物写真家の竹田津実氏は、「箱わなはクマの恨みを買うだけだ」と警鐘を鳴らします。クマは非常に賢い動物であり、例えば親グマか子グマのどちらかが箱わなにかかった際、捕まらなかった方のクマはその場を離れず、撃たれる瞬間を目撃することもあると言います。そのような経験が、クマに人間への「怨念」を抱かせる可能性を指摘しています。
一方で、知床でも近年は、ターゲットとするクマをほぼ100％の確率で捕獲できると判断される場合に限り、箱わなの使用を認めるようになっています。しかし、前述の駆除経験者は、「市街地に出てきてから駆除というのは、すでに失敗だ」と不満を漏らします。クマが市街地に出没する前の段階での対策が不十分であり、「出ないことを祈る」ような甘い管理体制が、結果的に問題を引き起こしていると指摘しています。
知床の挑戦：世界遺産としての責任と人間社会との調和
知床のクマ管理を巡る議論は、世界自然遺産としての環境保全の責任と、人間社会の安全確保という、二つの大きな価値観の衝突を浮き彫りにしています。ヒグマを高密度で維持する中で、いかに人身被害を最小限に抑え、真の共生を実現するのか。知床が直面するこの複雑な課題は、日本の他の地域におけるクマ問題にも、深く示唆を与えるものです。クマの命を尊重しつつ、人間社会との適切な距離を保つための、より実践的で効果的な方策が求められています。
