小泉セツ、夫ハーンとの愛と苦闘の英語学習:朝ドラ「ばけばけ」に描かれる真実

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」では、女中トキ(髙石あかり)が仕えるヘブン(トミー・バストウ)の英語が分からずに苦戦する姿が描かれ、視聴者の共感を呼んでいます。しかし、そのトキのモデルとされる小泉セツが、夫ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)との結婚後に英語を学ぶという、現実にはさらに深く感動的な努力を重ねていたことをご存じでしょうか。歴史家・長谷川洋二氏の著書に基づき、二人の間に横たわる言葉の壁と、セツの献身的な英語学習の軌跡に迫ります。

若かりし頃の小泉セツ。夫ラフカディオ・ハーンとの結婚当初の姿若かりし頃の小泉セツ。夫ラフカディオ・ハーンとの結婚当初の姿

言葉の壁がもたらした切実な問題

セツは後年、結婚当初の苦労を振り返り、「当時は、二人の会話の不都合に苦労させられました」と語っています。この「不都合」は単なる夫婦間の意思疎通にとどまりませんでした。松江時代にセツが語った「鳥取の蒲団」の話にハーンが狂喜したように、彼はセツに対し、執筆の素材となるような市井の出来事や人々の会話、新聞の三面記事から情報を集めることを強く期待していました。植木屋、女髪結い、女中、屑屋、羅宇屋といった市井の人々から話を聞き出す役割をセツは担っていたのです。

セツは、機織りの仕事で「一日必ず一反ずつ織り上げた」ほどの熱心さで、ハーンの期待に応えようと努めました。その努力は、近所で起きた事件を語る『東の国から』所収の「生と死の断片」といった作品に結実しています。しかし、その根幹を支える二人の意思伝達の手段である「言葉」が、切実な問題として横たわっていたのです。

小泉セツ、英語習得への健気な挑戦

このような状況が背景となり、セツの真剣な英語習得が試みられました。ハーンは、チェンバレンへの報告に先立つ1893年3月3日、松江尋常中学校の同僚である英語教師、西田千太郎への手紙で、セツへの英語教授が28回に及んだことを伝えています。さらに、「セツは英語に立派な進歩を示しています。彼女は、夏には大兄(西田のこと)に少し英語で話が出来るだろうと考えているのですよ」と記し、その成長に期待を寄せていました。

セツがいかに健気に努力したかは、現在に残る二冊の『英語覚え書帳』(合計約130ページ、『八雲の妻 小泉セツの生涯』巻末に収録)から窺い知ることができます。セツは、聞き取った英語の音を出雲訛りの日本語(カタカナ)で表し、その意味を添えて記録していました。これは現代の私たちから見ても、そのひたむきな努力が胸に迫るものです。

『英語覚え書帳』にみる英語学習の足跡

セツの『英語覚え書帳』からは、当時の彼女がどのように英語を学び、異文化の音と意味を懸命に捉えようとしたかが vividly に伝わってきます。例えば、以下のような記述が見られます。

  • 「トーマル……明日」 (Tomorrow)
  • 「トーナエタ……今晩」 (Tonight)
  • 「シぺーキ……言」 (Speak)
  • 「シレーペー……ねむた江」 (Sleepy)
  • 「ワエン……酒」 (Wine)
  • 「ドー・ユー・ウヱシ・トー・エタ……あなた食べ度(たい)か」 (Do you wish to eat?)

その他にも、日常生活で使われる単語が、独特の音写とともに記録されていました。

  • ナシテ・モーネン「わるえ(い)あさ」 (Nasty morning)
  • アエ・ハブ・エテン・プレンテ「私たくさんたべました」 (I have eaten plenty.)
  • アーラ・ユウ・ハングレ「貴君くうふくですか」 (Are you hungry?)
  • アエ・アン・ベロ・アングレー「私立腹」 (I am very angry.)
  • ソセル「こうひいだい。又ハすこしふかへ(い)皿」 (Saucer)
  • マシロム「松茸を云フ」 (Mushroom)
  • エー・ボク「此本(このほん)」 (A book)
  • デー・ボク「総ての本を云フ」 (The book)
  • ピレーテ「きれい」 (Pretty)
  • オギレ「みねくえ(みにくい)、みともなえ(い)」 (Ugly)

こうした学習は、夫婦二人の心の結びつきを強める上で大きな意味を持ったでしょう。しかし、結局のところ、セツが流暢に英語を話せるようになることはありませんでした。

まとめ

小泉セツの英語学習は、単なる語学の習得に留まらない、夫ラフカディオ・ハーンとの深いつながりを求める愛の努力でした。朝ドラ「ばけばけ」で描かれるトキの姿は、まさにセツの苦労と献身を現代に伝えるものと言えるでしょう。言葉の壁を乗り越えようとした彼女の健気な挑戦は、国際結婚における文化と言葉の奥深さ、そして夫婦愛の形を私たちに教えてくれます。

参考文献

  • 長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』潮文庫