59歳ひきこもり男性の苦悩と希望:脳機能障害、コロナ禍、そして音楽が繋ぐ社会への道

59歳の青木駿さん(仮名)は、脳の疾患による高次脳機能障害、記憶障害、失語症を抱え、さらにコロナ禍が追い打ちとなり、3年もの間ひきこもり生活を送ってきました。かつてプロの合唱団に所属し、音楽に情熱を傾けていた彼を再び社会と繋ぐきっかけとなったのは、幼い頃から慣れ親しんだ音楽でした。これは、困難な状況の中で希望を見出し、自身の人生を再構築しようと奮闘する一人の男性の物語です。

脳機能障害とコロナ禍がもたらした孤立:言葉を失い、社会から遠ざかった日々

約10年前、脳の疾患で倒れた青木さんは、手術後、記憶障害や言葉に詰まる失語症の症状に苦しみ、高次脳機能障害と診断されました。取材中も、質問に対して答えが返ってくるまでに数十秒から1分かかることがあり、懸命に言葉を探す彼の姿は、日常生活や仕事におけるコミュニケーションの困難さを物語っています。特に電話でのやり取りは、相手に状況を説明するだけでも多大な労力を要するといいます。

このような状況に追い打ちをかけたのが、新型コロナウイルスのパンデミックでした。「不要不急の外出」を控える要請が繰り返される中、青木さんは次第に外出への気力を失い、家の中で過ごすうちに心身ともに活動性が低下していきました。ベッドで過ごす時間が増え、筋肉が衰え、何かをしようという意欲さえも失われてしまったのです。妻の勧めで散歩に出ることもできず、3年間にわたるひきこもり生活が続きました。

ひきこもりを経験した59歳男性の苦悩を語る様子ひきこもりを経験した59歳男性の苦悩を語る様子

幼少期から培われた音楽との深い絆:家族に囲まれ育んだ感性

青木さんの人生において、音楽は幼い頃から常に身近な存在でした。医師であった父親は彼が5歳の時に他界しましたが、父と一緒にお風呂でロシア民謡「ヴォルガの舟歌」を歌った記憶は鮮明に残っています。お嬢様育ちの母親は、父親が残した切手や着物を売って家計を支えながらも、青木さんの教育には熱心でした。

4人きょうだいの末っ子である青木さんは、12歳上と10歳上の姉、そして8歳上の兄がいました。長姉は東京芸大を卒業後、自宅でピアノ教室を開き、次姉は看護師として家計を助けていました。家にはレコードがたくさんあり、長姉はオペラのアリアを歌うなど、音楽が常に響く家庭環境で育ちました。「一番上の姉は蝶々夫人とかトスカとかオペラのアリアを家でも歌っていたし、家にレコードもたくさんあったので、僕もステレオでよく聴いていました。音楽が大好きでしたね」と青木さんは当時を振り返ります。中学では吹奏楽部、高校では合唱部に所属し、短大では本格的に声楽を学び、音楽への造詣を深めていきました。

プロ合唱団での輝かしいキャリアと家族のための決断

短大卒業後、青木さんは念願叶ってプロの合唱団に所属。全国の小中学校で音楽鑑賞教室のために歌い、時にはテレビ番組に出演するなど、充実した音楽活動を送りました。25歳で合唱団のエキストラで来ていた女性と結婚し、新たな人生のステージに進みます。

30歳を迎える頃、「そろそろ子どもが欲しい。生活を安定させなければ」という思いから、青木さんはプロの歌手としての道を断念する決断をします。アルバイトをしていた小さな出版社から社員にならないかという誘いを受けましたが、その条件は「歌を辞めること」でした。プロとして歌でお金を稼ぐ生活はそこで終わりを告げました。その後、長男、次いで長女が生まれ、青木さんは家族のために新たな職に就き、安定した生活を築こうと努めました。しかし、介護職への転職後、新しい仕事が覚えられず、ストレスから体調を崩し、二度の自殺未遂を経験することになります。

青木さんの人生は、音楽と共に輝かしい時期と、病と社会からの孤立に苦しむ困難な時期が交錯しています。しかし、その根底には、幼い頃から育んできた音楽への変わらぬ愛情がありました。この音楽こそが、彼が再び社会と繋がるための希望の光となり、ひきこもりからの脱出を支える力となります。この物語の後編では、音楽が青木さんの回復にどのように貢献したのか、その詳細が語られることでしょう。


参照元:
ルポ〈ひきこもりからの脱出〉39 59歳のひきこもり経験者が語る苦悩