(2025.7.2〜9.24 85日 総費用34万2000円〈航空券含む〉)
【画像】トルコ共和国が建国以来、亡命者・難民を受け容れてきたのはなぜか?オスマン帝国末期の汎トルコ主義、汎イスラム主義が源流なのか…
トルコにブルガリア人小学校が35校もあるのはなぜか?
7月7日。マルマラ海沿岸の港町ヤロワから古都イズニック(旧名:ニケーア)を目指して走った。炎天下のウルアバト湖沿いの道の路傍の木陰で休憩していた時、自転車で通りかかった地元の男から興味深い話を聞いた。
男性はイスラム教徒のブルガリア人でソ連邦崩壊後に一家でトルコに移住したという。現在ブルガリア人小学校の教師をしているが、トルコにはなんと35校のブルガリア人小学校があるという。
男性の話ではどうも共産党支配が崩壊して新生ブルガリアになるとブルガリア正教徒のブルガリア人のナショナリズムが高揚してイスラム教徒のブルガリア人は差別・憎悪の対象になったようだ。そのため“トルコ系やトルコ文化に連なる”イスラム教徒難民を受け容れていたトルコに移住したようだ。
ソ連邦崩壊後のバルカン半島の過激なナショナリズムとトルコへの亡命
以前バルカン半島を自転車旅行した時に見聞した旧ユーゴスラビア地域のボスニア・ヘルツエゴビナや、コソボで行われたセルビアによる“民族浄化”を思い出した。正教徒スラブ民族であるセルビア人がイスラム教徒住民を抹殺しようと武力行使したが、ブルガリアでも過激なナショナリズムが吹き荒れたようだ。
筆者の理解ではバルカン半島を統治したオスマン帝国は、トルコ人をバルカン半島に移住させて治安維持や徴税など統治機構に利用し、他方で現地の正教徒の住民の一部も免税などの優遇措置をうけるべくイスラム教徒に改宗した。こうしてバルカン半島のイスラム教徒は現地社会の支配層・富裕層となっていった。これがキリスト教徒住民の長年の反感と憎悪を招くことになったという歴史的背景である。
ブルサ在住のブルガリア難民一家の娘は幸せになれるのか
7月22日。エーゲ海沿岸の都市アイワルクに近い幹線道路沿いのガソリンスタンドで従業員の青年と親しくなった。22歳の青年は8歳で母を亡くし義理の父の養子になった。義理の父の仕事の関係で子どもの頃から競馬の騎手となるべく訓練を受けた。念願のプロの競馬騎手となって数年間活躍したが、落馬事故で再起不能の大怪我をして引退した。
現在はガソリンスタンドに住み込みで働いて金を貯めている。青年の目標は十分な資金を貯めて現在交際している娘と結婚することだという。彼女の一家はブルガリアから亡命してきたという。彼女はイズニックに近いブルサに住んでいる。ブルサには亡命ブルガリア人のコミュニティーがあるようだ。
7月22日。アイワルク市内で出会ったチャナッカレの大学生にブルガリア人の移住者の話をしたら、トルコはソ連邦崩壊後にブルガリア、ルーマニア、旧ユーゴスラビアなどバルカン半島からの政治難民を数多く受け入れており、トルコ各地にコミュニティーがあると解説してくれた。





