高松城、今治城、宇和島城。これらは日本三大海城として知られています。今回は、その中でも特に美しいと称される高松城の魅力を、歴史的背景と共に紐解いていきます。
かつての壮麗な姿と変遷の歴史
高松城は、1588年に生駒親正によって築城され、その後、徳川光圀の兄である松平頼重によって整備されました。日本最大の海城であったばかりか、「日本で一番美しい城」だったとも言われています。
瀬戸内海に面した北側は、海岸からそびえ立つ石垣の上に二重、三重の櫓が並び、白い土塀で繋がっていました。海水を引き入れた広大な水堀が城内をめぐり、まさに水の都ヴェネツィアを彷彿とさせる景観だったと想像できます。「讃州讃岐は高松様の城が見えます波の上」と歌われた民謡からも、当時の海の向こうに浮かぶ美しい城の姿が目に浮かびます。
高松城(玉藻公園)の艮櫓
しかし、時代の流れと共に周囲は埋め立てられ、かつての海城としての面影は薄れてしまいました。現在でも水堀には海水が引き入れられ、鯛が泳いでいるものの、石垣と海の間には水城通りやフェリー乗り場が設けられ、城と海は隔てられています。
現存する月見櫓と水手御門
北の丸最北端には、三重の月見櫓と水手御門が現存しています。歴史評論家の香原斗志氏によると、月見櫓は本来、船の出入りを監視する「着見櫓」で、水手御門は海に向かって開かれており、藩主は参勤交代の際にここから小舟で沖合の御座船へと移動したそうです。(出典:香原斗志『お城の値打ち』新潮新書)
かつては海のすぐ側にあったこれらの建造物も、今では水も涸れかけた狭い堀の横に佇み、博物館の展示物のように見えるのは残念なことです。
海城としての機能を失った高松城
現在の高松城は、周辺の開発により海城としての機能は失われてしまいました。しかし、現存する建造物や史料から、かつての壮大な姿を想像することは可能です。
例えば、城郭建築に詳しい建築史家の田中氏(仮名)は、「月見櫓や水手御門の存在は、高松城が海と密接に関わっていたことを示す重要な証拠です。これらの建造物を保存・活用することで、失われた海城としての魅力を現代に伝えることができるでしょう」と述べています。
失われた景観を取り戻すために
高松城に限らず、多くの城郭が時代の変化と共に姿を変えてきました。城郭の復元整備は重要な取り組みですが、香原氏は「整備は城外にも広がるのが理想」と指摘しています。周辺環境を含めた整備を行うことで、城本来の魅力をより深く理解できるようになるのではないでしょうか。
高松城を訪れる際には、かつての壮大な海城の姿を想像しながら、歴史のロマンに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。