戦前の日本。神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇…これらの言葉は、現代の私たちにとって歴史の教科書で目にする馴染み深いものである一方、その真の意味や当時の日本社会における影響について、どれほど理解していると言えるでしょうか。右派は「美しい国」と賛美し、左派は「暗黒の時代」と批判するなど、解釈は多岐に渡ります。しかし、戦前の日本の真の姿を理解することは、私たち日本人にとって欠かせない教養と言えるでしょう。歴史研究者である辻田真佐憲氏の著書『「戦前」の正体』(講談社現代新書)を参考に、戦前の実像に迫っていきます。
国家神道:プロパガンダという一面的な理解を超えて
戦前の神社における祭祀の様子
戦前の神道、いわゆる「国家神道」という言葉には、政府が神社を統制し、国民を巧みに操るプロパガンダのイメージがつきまとっています。しかし、近年の研究では、この見方は一面的なものだと指摘されています。
「祖先より代々受け継がれてきた伝統」という物語は、決して政府や軍部から強制されただけのものではなかったのです。国民一人一人の心に深く根付いた精神性や価値観が、当時の社会を形成していた側面も見過ごせません。例えば、地域社会における神社の役割、人々の日常生活における信仰心、そして家族や共同体の中での倫理観などは、国家神道という枠組みだけで捉えることはできません。
実際、「惟神の大道」を掲げた神道の国教化は早期に頓挫し、神社神道は国家から特別扱いされる代わりに、「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」と位置づけられました。これは、他の宗教の「信教の自由」との兼ね合いを図るための措置でもありました。その後の神道行政も一貫したものではなく、神社を監督する官庁は、神祇官、神祇省、教部省、内務省社寺局、内務省神社局と、明治時代だけでも目まぐるしく変遷しました。
辻田真佐憲氏
神社を専門に管轄した官庁は初期の神祇官と神祇省のみで、1872年(明治5年)に設置された教部省は仏教などの他の宗教も管轄していました。それ以降は内務省の一部局となり、1900年(明治33年)に設置された内務省神社局も省内では三流局扱いでした。
「国家の宗祀」とされた神社でさえ十分な公的支援を受けておらず、官費の支給は不十分で、明治時代中期にはほとんどの神職が官吏ではなくなりました。特に府県社以下の神社への国家の保護は、ほとんど皆無の状態でした。著名な歴史学者である山田孝雄氏も、当時の地方における神社の運営の困難さを指摘しており、国家による統制が絶対的なものではなかったことが伺えます。
このように、国家神道という言葉から連想される、政府による強力な統制やプロパガンダといったイメージは、実態とは必ずしも一致していません。戦前の日本社会における精神性や信仰を理解するためには、より多角的な視点が必要となります。