戦後の冷戦構造が深まる中、1950年6月25日に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発しました。これは北朝鮮による韓国への侵攻という形を取りましたが、ソ連と米国を中心とする東西両陣営がそれぞれ支援した代表的な米ソ代理戦争の一つです。1953年7月27日に休戦協定が結ばれましたが、冷戦終結を経ても両国は現在も「休戦中」の状態が続いています。この朝鮮戦争の勃発は、当時GHQの占領下にあった日本に大きな変化をもたらしました。戦後の混乱期から復興期への決定的な転換点となったのが、「朝鮮特需」と呼ばれるものです。米軍の在日司令部による繊維製品、建材、食料品などの大規模な買い付けは、総額10億ドル、間接特需を含めると36億ドルにも達したと言われています。この戦後初の好景気に日本経済は活況を呈しましたが、事業拡大を図る企業にとっては、この好景気がいつまで続くのかという予測が重要な課題となりました。そこで、多くの質問が寄せられた人物がいます。それが、元大本営陸軍参謀で、関東軍時代にソ連の軍事分析を担当していた完倉寿郎氏でした。
完倉寿郎氏は、朝鮮戦争勃発当時、GHQのブレーンとして招集されていた旧日本軍参謀の一人でした。その20年後、「週刊新潮」の誌上で当時を振り返った完倉氏が、「商売も戦と同じ」と語った理由は何だったのでしょうか。
朝鮮戦争勃発から休戦までの経緯
朝鮮戦争の主な経緯は以下の通りです。
- 昭和25年(1950年)6月25日:38度線で戦闘開始
- 昭和25年(1950年)8月〜9月:米韓軍が釜山まで追いつめられる
- 昭和25年(1950年)9月:米軍が仁川(インチョン)に上陸
- 昭和25年(1950年)10月:中国人民解放軍が介入
- 昭和26年(1951年)7月:休戦会談開始
- 昭和28年(1953年)7月:休戦協定調印
日本人にとって、この戦争はまさに「寝耳に水」の出来事でしたが、実はこれを十分に予測し、当時の日本占領軍であるGHQに進言していた旧日本軍参謀たちのグループが存在しました。
GHQの知られざる頭脳集団:元日本軍将校たち
GHQの参謀第二部(GII、諜報・治安担当)を率いていたチャールス・ウィロビー少将は、その強い反共主義で知られていました。ウィロビー少将は当時、郵船ビル内に「戦史編纂室」を設置し、そこに旧日本陸海軍の参謀を中心に約50人の日本人将校を集めていました。
東京都千代田区有楽町のGHQ本部が入居していたビル(1946年撮影)。朝鮮特需期における占領下の日本の様子を示す写真。
この「戦史編纂」は表向きの理由であり、その実態は対ソ連、対北朝鮮戦略を練るためのブレーン・スタッフとしての役割を担っていたのです。服部卓四郎氏や有末精三氏といった著名な名前は知られていますが、その他の多くの人々は、今日に至るまでその当時の「経験」を公にすることをためらっています。
「商売も戦と同じ」:元参謀が見た好景気の行方
彼らが公に語りたがらない理由について、その一人であった完倉寿郎氏(当時57歳)は「やはり日本軍人として、昨日までの敵国である米軍に協力したことへのうしろめたさがあるからですよ」と語っています。敵として戦った相手に協力したことへの複雑な感情があったのです。
そして、朝鮮特需による好景気に沸く日本経済の状況に話を移し、企業経営者が特需の継続性を予測しようとしたことに関連して、完倉氏は「商売も戦と同じ」だと述べました。これは、不確実性の高い状況下で、戦略的に将来を見通し、リスクを評価することの重要性を説いた言葉であり、戦場で培った洞察力がビジネスの分野にも通じるという彼の考えを表しています。特需がいつまで続くか、その後の日本経済はどうなるかという問いに対する、元軍事専門家ならではの示唆に富む視点でした。
結論
朝鮮戦争は、日本国内の出来事ではなかったにも関わらず、その勃発とそれに伴う「朝鮮特需」は、戦後日本の経済復興に決定的な役割を果たしました。この未曾有の好景気の裏側には、GHQの内部で密かに活動していた旧日本軍の元参謀たちの存在がありました。彼らはかつての敵国のために、その戦略的知見を提供しましたが、その経験は彼らに複雑な感情を残しました。完倉寿郎氏の「商売も戦と同じ」という言葉は、経済活動における戦略的思考の重要性を示唆すると同時に、予測困難な時代のビジネスと戦争の類似性を浮き彫りにしています。朝鮮特需は、単なる経済現象としてだけでなく、占領下の日本における国際情勢と国内事情、そして元軍人たちの知られざる貢献が交錯した複雑な歴史の一幕と言えるでしょう。
参考文献
- 「週刊新潮」1971年1月9日号「GHQから朝鮮戦争を見た元大本営参謀」