「ここにいた人たちは、もう疲れることもできない」520人が犠牲になった日航機墜落事故 38年前の夏、20代だった記者は「御巣鷹」の急斜面を歩き続けた

「ここにいた人たちは、もう疲れることもできない」520人が犠牲になった日航機墜落事故 38年前の夏、20代だった記者は「御巣鷹」の急斜面を歩き続けた

[ad_1] 機体が散乱する墜落現場=1985年8月14日  38年前と同じ夏の青空が広がっていた。暑い。汗が噴き出す。整備された登山道を歩き、25分で慰霊碑の前に着いた。あの時、ひたすら「命」を追い続けた墜落現場は“御巣鷹の尾根”と名を変え、私を迎えてくれた。 【動画】鎮魂の灯、520人しのぶ 日航機事故、12日で38年 御巣鷹の尾根の墜落地点にある「昇魂之碑」に手を合わせる筆者=7月4日、群馬県上野村  1985年8月12日、羽田発大阪行き日航ジャンボ機が墜落し、航空機の単独事故として史上最悪の520人が亡くなった。発生後に墜落現場の尾根に入った私が、当時の取材を振り返る。(共同通信=杉山高志)  ▽ポケットベルで呼び出し  「日航機の現場に行ってもらう」。呼び出しを知らせるポケットベルが鳴り、横浜支局に電話すると支局長の押し殺した声が聞こえた。当時の私は20代後半。勤めていた新聞社の神奈川県警担当記者として事件や事故の取材に明け暮れていた。  事故の発生はニュースで知った。「日航機の機影がレーダーから消失」。テレビの速報を見た先輩記者は、こうつぶやいた。「こんな事故、もう一生経験ないぞ」  事故何日目に現地に行ったのかよく覚えていない。ただ、「生存者発見」のニュースが駆け巡った直後だった。急きょ購入した登山靴を履き、着替えと洗面用具をバッグに詰め、東京本社に直行。群馬県上野村に会社が確保した取材拠点の旅館にハイヤーで向かった。 なぎ倒された樹木と日航機の残がい=1985年8月13日  出発前。三重県の実家から電話があった。「モトちゃんがえらいことになった」。母親の声は震えていた。会社経営のいとこが日航機に搭乗していたという。30代のいとこは商談後、大阪の自宅に戻る途中だった。「親戚が羽田空港に行くから面倒見たって(見てあげて)」。「現場に行くんだ。相手できない、ごめん」。母に謝り、電話を切った。  ハイヤー運転手に頼み、羽田で親戚と顔を合わせた。かける言葉はなく、「遺体の損傷が激しいかもしれないから頭に入れておいて」。そう言うのが精いっぱいだった。  ▽「見たまま聞いたまま、全部メモしろ」  取材拠点は本社と関東一円の支局の記者やカメラマン、庶務担当者らでごったがえしていた。どの顔にも汗が浮かび、目が血走っていた。現地入りした運輸省事故調査委員会(当時)の取材は本社のベテラン。入社5年目くらいまでの若手十数人で現場班が編成された。  翌朝6時。パラパラパラパラ…。すさまじい爆音で目が覚めた。救助活動のヘリコプターが近くの臨時ヘリポートから離陸していく音だ。先輩記者はこわばった顔で指示した。「年長のおまえが仕切れ。現場では見たまま聞いたままを全部メモしろ。電池節約のため無線は原則定時連絡で使え」 [ad_2] Source link