コンスタンチンちゃん救出劇、関係者はいま 日本中が注目した命のリレー#ニュースその後

コンスタンチンちゃん救出劇、関係者はいま 日本中が注目した命のリレー#ニュースその後

[ad_1] 緊急搬送翌年、再治療のため来日したコンスタンチンちゃんと辻修治さん=辻政伸さん提供  東西冷戦が終結した翌年の1990年、1人の幼児が懸け橋になり、日本とソ連の間にも小さな友好の灯がともった。サハリン州で大やけどを負った3歳のコンスタンチン・スコロプイシュヌイちゃん。北海道に緊急搬送され、退院するまでの3カ月間、日本中が回復ぶりに一喜一憂した。あれから30年あまり。ロシアのウクライナ侵攻が日露関係にも影を落とす中、コンスタンチンさんを巡る草の根のつながりは途切れていなかった。 【写真】大人になったコンスタンチンさん 誕生日に届くロシア語のメッセージ 小田美奈子さん  「おめでとう!」。2022年2月5日、札幌市手稲区の小田美奈子さん(49)のスマートフォンに、ロシア語のメッセージが届いた。この日は、母である辻寿子さんの82歳の誕生日だった。送り主は、イーゴリ・スコロプイシュヌイさん(59)。現在は36歳になったコンスタンチンさんの父だ。  小田さんが高校生だった34年前の夜。母からの電話が交流の始まりだった。当時、両親は札幌市内ですし店「ひさご寿司」を営んでいた。「サハリンの坊やの両親が来てるのよ」。店に駆け付けると、ここ連日テレビの中で心配そうな表情を浮かべていた男性がカウンターに座り、おいしそうにすしをほおばっていた。 「絶対に助ける思いだった」 ソ連・サハリンからやけど治療のため札幌医大病院に到着したコンスタンチンちゃん=1990年8月28日  コンスタンチンさんは90年8月、サハリン州の自宅で熱湯の入ったバケツに落ち、負ったやけどは全身の8割に及んだ。現地の病院では治療が難しく、州知事が北海道知事に「このままでは70時間しか生存できない。日本で治療してほしい」とファクスで緊急要請した。入国査証(ビザ)はなかったが、日本は人道上の見地から受け入れを決めた。海上保安庁の航空機YS11がサハリンまで迎えに行き、丘珠空港で北海道庁のヘリに乗り換える「命のリレー」がつながり、ファクスから19時間後には札幌医大病院に搬送された。  「助かる確率は30~40%。でも、絶対に助けるという思いだった」。皮膚移植手術の執刀医だった阿部清秀さん(76)は振り返る。入院1カ月で5回の手術を受け、容体は順調に回復していった。リハビリ担当の一人だったのは、理学療法士を目指す実習生だった寒川美奈さん(53)。日に日に元気になる姿を見てやりがいを感じ、自身の進路に迷いがなくなった。「彼との出会いが、一生の仕事を決めた」と思い返した。 [ad_2] Source link