「原爆翌日の長崎」新たな写真、地面から煙立ち上る爆心地付近…山端庸介氏撮影か

「原爆翌日の長崎」新たな写真、地面から煙立ち上る爆心地付近…山端庸介氏撮影か

[ad_1] 新たに確認された写真。手前に国鉄の線路や手つかずのがれきが、右奥に城山国民学校が見える。全体的にけぶっていて、南校舎(左側)が崩落していない=長崎原爆資料館所蔵  長崎への原爆投下翌日の1945年8月10日に爆心地付近の惨状を収めたとみられる新たな写真が確認された。旧日本軍の報道カメラマンだった山端庸介氏(1917~66年)の写真の可能性が高い。長崎市は「資料的な価値が極めて高い」とし、展示も検討している。(遠藤信葉) 【写真】旧日本軍の報道カメラマンだった山端庸介氏  写真は、長崎に進駐した米海兵隊の通訳などを務めた日本人男性が米軍人から譲り受けたもの。散乱するがれきや国鉄の線路、倒れかけた電柱などが収められ、中央奥の丘の上には爆心地から約500メートルの城山国民学校が写っている。  男性の遺族から2020年に寄贈を受けた長崎原爆資料館(長崎市)が所蔵し、撮影者の特定に向けて確認を進めてきた。撮影者の記載はないが、同時に寄贈された6枚は山端氏撮影として既に知られているものだった。関係者は新たな1枚も山端氏撮影とみている。  山端氏は被爆後の長崎を最も早く撮ったとされる。本人の手記などによると、他の西部軍報道部員とともに45年8月10日午前3時頃、長崎市北部の道ノ尾駅に到着。南部の長崎地区憲兵隊本部に向かった後、北上しながらシャッターを切り、午後に長崎を離れた。  破壊された建造物だけでなく、「黒焦げになった少年」や「炊き出しのおにぎりを持つ母と子」など一瞬で命を奪われた人や被爆者も被写体とした。原爆の悲惨さを迫真性を持って伝えている。  新たな写真について、資料館の奥野正太郎学芸員(37)は、爆心地から約200~300メートルで撮影されたのではないかと分析。▽45年9月に台風で崩壊したとされる同学校南校舎が残っている▽地面から煙が立ち上っている▽国鉄の線路上にがれきが残り、列車が通った8月12日より前とみられる――ことなどに着目し、「山端氏が撮影した蓋然性が高い」とする。 気象学者の藤田哲也氏が1945年8月20~24日に撮影した写真。道路上のがれきが整理されている=長崎原爆資料館所蔵  山端氏が10日に撮影した写真は116枚確認されているが、新たな1枚は“117枚目の発見”にとどまらない意義がある。  城山国民学校は、在籍していた児童約1500人のうち約1400人が自宅などで命を落とし、被爆校舎は国史跡に指定された。資料館によると、これまでは気象学者の藤田哲也氏(1920~98年)が45年8月20~24日に撮影し、倒壊前の南校舎が写る1枚が最も投下日に近いとされてきた。  今回の写真はそれより投下日に近く、長崎市被爆継承課の伊福伸弘課長は「学校がどのように変わっていったかの分析に役立つ。資料的価値は高い」と話す。国史跡に関する新たな資料として、文化庁にも説明する方針。 [ad_2] Source link