プロ野球選手としての活躍、そして初めての著書出版
元東北楽天ゴールデンイーグルスの聖澤諒さん。中学時代は公式戦0勝、高校時代は同級生が2人だけの弱小野球部という経歴を持ちながらも、プロ野球選手として活躍されました。
2024年9月11日には、自身の経験を元に『弱小チーム出身の僕がプロ野球で活躍できた理由』(辰巳出版)を出版。
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本書では、野村克也監督や星野仙一監督、そして田中将大投手とのエピソード、球団初の日本一など、貴重な現役時代のお話がたくさん詰まっています。
今回は、聖澤さんに現役時代を振り返っていただきながら、当時のエピソードをさらに深掘りしてお伺いしました。
「怖い」だけじゃない? 星野監督の意外な一面
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― 書籍では、2013年の球団初の日本一についても触れられていますが、当時の星野仙一監督はどのような印象でしたか?
聖澤さん: 最初は世間一般のイメージ通り、「怖い」監督なのかなと思っていました。でも、実際は違いましたね。試合中にミスが出たり、相手に点を取られたりしても、グッと感情を抑えているように見えました。時代に合わせて、星野監督自身も変化していたのかもしれません。
ただ、数年後に当時のコーチに聞いた話なのですが、試合後のコーチミーティングでは、星野監督はかなり怒っていたそうです(笑) 選手の打撃が悪ければ、バッティングコーチが代表して怒られる…といった感じで、選手に直接ではなく、ワンクッション置くことで、選手たちがプレーしやすい環境を作ってくれていたんだと思います。
― 闘将というイメージとは少し違っていたんですね。
聖澤さん: 星野監督は、試合が始まれば、グッと気持ちが入っている雰囲気でした。ですが、練習中や移動の時は「昨日、何食べたんだ?」といったラフな会話で選手たちと接してくれました。
ちなみに、私が活躍できた2011年(52盗塁)、2012年(54盗塁で盗塁王・得点圏打率12球団1位)の時は、ご褒美として時計をいただいたことを覚えています。
― 日本一になったシーズンは、いつ頃からリーグ優勝を意識しましたか?
聖澤さん: ラスト1か月くらいだったと思います。最終的には7ゲーム差くらいつきましたが、選手たちは決して安全圏だとは思っていませんでした。追われる辛さというか、いつか自分たちが連敗した時に、相手が連勝してひっくり返されるんじゃないかという不安がありましたね。
首位になっても楽観的なムードはなく、常に気を引き締めているような雰囲気でした。目の前の一戦一戦をチャレンジャーとして戦っていたことを覚えています。
― そのシーズンは3番を打つことが多かったですよね?
聖澤さん: それまでは1番を打つことが多かったのですが、星野監督から「お前の今までのプレーを見てきて、3番というピースに当てはめるだけだから。“3番”のバッティングをするとか、無理に長打を狙う必要はない」と言われました。打順が変わっても、自分を見失わないようにという話でしたね。
― 田中将大投手の伝説の24勝0敗もありました。
聖澤さん: 田中の存在は、チームにとって本当に大きな支えでした。チームの調子が悪い時でも、田中がいれば流れを変えてくれるという安心感は、選手たちの精神的な負担を大きく軽減してくれていたと思います。
もちろん、田中が苦しいピッチングの試合もありました。そんな時は野手が奮起して勝ちにつなげることができたのも印象的です。あとは、マギー選手やDジョーンズ選手といった外国人選手が活躍してくれたのも大きかったです。