第二次世界大戦末期、多くの若者の命を奪った「特攻」。2024年は、その特攻作戦開始から80年の節目に当たります。世界でも類を見ないこの作戦は、どのように採用され、実行されたのでしょうか。本記事では、日本海軍のフィリピン戦線における特攻作戦と、そこに携わった人々の思いを、特に歴戦のパイロット、角田和男少尉の経験を通して紐解いていきます。
特攻直掩任務への抜擢:ダバオへの空輸
ダバオへの空輸任務を命じられる角田少尉
数々の空中戦を経験し、海軍随一の零戦パイロットとして名を馳せていた角田和男少尉。彼は、予期せぬ形で特攻隊に組み込まれ、直掩機として出撃を繰り返していました。11月下旬のある日、角田少尉はマバラカット基地からダバオ基地へ零戦4機を空輸する任務の指揮官に任命されます。ダバオまでの航法に自信のない若い士官たちにとって、角田少尉のような叩き上げの特務士官は頼りになる存在でした。当時、彼ほどの飛行時間と実戦経験を持つパイロットは、フィリピン全域でもごくわずかでした。中島飛行長から「お前なら行けるだろう」と声をかけられた角田少尉は、「航空図さえあればどこへでも」と即答します。こうして、特攻機の誘導直掩という新たな任務を帯び、角田少尉はダバオへ向かうことになりました。
ダバオ基地での再会と特攻への問い
零戦に乗り込む搭乗員
ダバオへの空輸任務中、角田少尉の列機の一機がマラリア発症のためセブ基地へ離脱。残る3機でダバオ基地へ着陸した角田少尉は、そこで懐かしい顔ぶれと再会を果たします。第六十一航空戦隊司令官の上野敬三中将は、角田少尉が飛行練習生時代の上官でした。第一航空艦隊参謀長の小田原俊彦大佐は、かつて計器飛行の指導をした教官。そして、六十一航戦先任参謀の誉田守中佐は、厚木航空隊での整備長でした。指揮所に入った角田少尉に、誉田参謀は家族の安否を尋ねた後、「ほんとうにぶつかるつもりかい?」と問いかけます。角田少尉は一瞬戸惑いながらも、「ご命令であれば、いつでもやります」と答えたのでした。
特攻機
この問いは、角田少尉の心にどのような波紋を広げたのでしょうか。そして、戦局はどのように推移していくのでしょうか。次回、角田少尉の葛藤と覚悟、そして特攻作戦の現実についてさらに深く掘り下げていきます。