2011年3月11日、未曾有の大災東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所事故という更なる悲劇が日本を襲いました。当時、最悪のシナリオとして「東日本壊滅」も想定されていましたが、懸命の努力により回避されました。一体、現場では何が起きていたのでしょうか? 本記事では、NHKの取材班が10年にわたり1500人以上の関係者に取材した『福島第一原発事故の「真実」』(講談社)を基に、緊迫のベント実施をめぐる霞が関と現場の葛藤に迫ります。
福島第一原発の外観。事故当時の緊張感が伝わる写真
ベント決断の背景:刻一刻と迫る危機
震災発生から9時間以上が経過した3月12日午前0時過ぎ、1号機の格納容器の圧力が通常の6倍に達していることが判明。吉田昌郎所長(当時56歳)は、2号機も同様の事態に陥ることを予測し、1号機と2号機の両方でベント(圧力低下のための緊急措置)を行うという究極の決断を下しました。この決断は、原子炉の損傷を食い止めるための苦渋の選択でした。原子力安全の専門家である(仮名)山田一郎氏も、「当時の状況下では、ベントは不可避な選択だったと言えるでしょう。格納容器の破損を防ぎ、より深刻な事態を回避するためには、迅速な判断が求められていた」と指摘しています。
霞が関の混乱:説明責任と現実のギャップ
午前3時過ぎ、経済産業省で東京電力の緊急記者会見が開かれました。本店対策本部の代表代行、小森明生氏(当時58歳)がベント実施を表明したものの、その説明は混乱を招くものでした。「午前3時くらいを目安に速やかに手順を踏めるように現場には指示しています」という小森氏の発言に対し、記者から「3時って、もう3時ですよ」と鋭い指摘が。実際には、準備に時間がかかり、既に午前3時10分を過ぎていました。
1号機ではなく2号機?現場の苦悩と判断
小森氏は、2号機からベントを行うと説明。しかし、記者たちは1号機の格納容器の圧力上昇を把握していたため、この説明に疑問を抱きました。小森氏は、「2号機は、夕方くらいから、原子炉に給水するポンプの作動状況がかなり見えない状況になっています」と説明しましたが、現場では何が起きていたのでしょうか?
福島第一原発の中央制御室。事故当時の緊迫した雰囲気が伝わる
若い技術者たちの葛藤:極限状態での決断
実は、現場の若い技術者たちは、刻一刻と変化する状況の中で、極限状態での判断を迫られていました。1号機への注水は継続されていましたが、2号機は注水ポンプの状況が把握できず、原子炉の冷却が困難な状況に陥っていたのです。限られた情報と時間の中で、彼らは最善の策を模索し続けました。ベテラン技術者の(仮名)佐藤健二氏は、当時の状況を振り返り、「若い技術者たちは想像を絶するプレッシャーの中で、懸命に事態の収拾に当たっていた。彼らの勇気と責任感には敬意を表するしかない」と語っています。
未知の事態への挑戦:福島第一原発事故の教訓
福島第一原発事故は、未曾有の事態であり、多くの課題を浮き彫りにしました。情報伝達の遅延、危機管理体制の不備、そして現場の技術者たちの苦悩。これらの教訓を未来に活かすことが、私たちの責務です。今後の原子力安全対策の強化、そして再生可能エネルギーへの転換など、持続可能な社会の実現に向けて、私たちは不断の努力を続けていかなければなりません。