15歳で人を斬り、16歳で不良グループのトップに…戦後の東京に君臨した「伝説のアウトロー」尾津喜之助の“破天荒すぎる少年時代”


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 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『 新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史 』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全4回の1回目/ 2回目 に続く)

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継母と馬が合わなかった少年時代の喜之助

 母は、士族の娘だったからか、酒と女が好きだった夫に付き従うのをよしとせず、喜之助2歳のときに家を捨てた。台湾へ渡ったらしい。父は別の女性を後妻として迎える。

 継母となった女性と喜之助、これがつくづく馬が合わない。幼いころから喜之助は利発で勉強ができ、14歳のころ、ナンバースクールである旧制府立第三中学校へ合格を果たしている。本人はのち、老境に至ってもこの入試で2番の成績であったことを誇った。

 ところが、通うことが許されない。資金的な問題はなかった。ただ、継母がいい顔をしなかった。彼女ともしうまくやれていたなら、戦後の新宿駅前の様子は全く違っていたはずだ。結局、入学を辞退させられたとき、少年は、人生最初の大きな癇癪玉(かんしゃくだま)を炸裂させた。棒切れで継母を叩くや、そのまま、家を捨てた。

浮浪児とほとんど似た暮らし

 物乞いをして、糊口(ここう)をしのぐしかなかった。浅草は当時、帝都随一の遊興地であり有象無象も集まっている。弱い者を狙う無法者もうろついていた。



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