1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、多くの人々が住む家を失い、避難所生活を余儀なくされました。この記事では、当時の避難所の状況、被災者の声、そしてそこから得られる教訓について詳しく解説します。
避難所の過酷な現実:寒さ、不安、そして情報への渇望
震災直後、体育館などの避難所には、家を失った人々がひしめき合っていました。神戸市の最低気温は1.4℃。凍えるような寒さの中、人々は不安と恐怖に怯えながら過ごしていました。
避難所の様子
「家の中にヒビが入っているので、余震が怖くて避難所に来ました」
「本当に死ぬ思いでした」
避難所では、杖をつく場所すら確保するのが難しいほど、多くの人々が身を寄せ合っていました。 人々の表情には、命が助かった安堵感と同時に、これからどうなるのかという不安、そして大切な人を失った悲しみや怒りが見て取れました。特に小さな子どもを持つ母親たちは、ミルクの確保や子どもの健康に不安を抱えていました。
「子どもを守るので必死でした。今も泣いてばかりで…母乳の出も悪くなってしまって…」
ピーク時には、兵庫県内の避難者数は30万人を超え、避難所は1153ヶ所にものぼりました。着の身着のまま避難してきた人々は、まず家族や友人の安否確認に奔走しました。避難所の壁には、「〇〇さん、無事ですか?連絡ください」といった張り紙がびっしりと貼られ、一人ひとりの切実な願いが込められていました。公衆電話には長蛇の列ができ、安否確認の電話をかける人々の姿が見られました。
「みんな無事だった?うちは全滅だ。もう家には入れない」
食料不足:期限切れのおにぎり、そして支援の遅れ
避難所生活では、見知らぬ人同士が一つ屋根の下で共同生活を送ることになります。限られた資源の中で、誰もが生きるために必死でした。
避難所で食料を配る様子
震災当日、神戸市内の小学校で配られた食事は、1人につき食パン1枚だけでした。十分な支援物資が届くまでには時間がかかり、食料不足は深刻な問題となりました。
当時、避難所で生活していた神生善美さん(75歳)は、当時の状況を次のように語っています。
「初めてもらったのが、おにぎりでした。それも期限切れのもので、1つを2人で分け合いました」
自宅が全焼した神生さんは、藁にもすがる思いで神戸市須磨区の鷹取中学校の避難所に向かいました。そこでの生活は、想像を絶するほど過酷なものだったといいます。
教訓:災害への備えと共助の精神
阪神・淡路大震災の避難所生活は、災害への備えの重要性を改めて示しました。食料や水、毛布などの備蓄はもちろんのこと、家族との連絡方法や避難場所の確認など、日頃からの準備が不可欠です。
また、震災では、地域住民同士の助け合いやボランティア活動の重要性も明らかになりました。非常時における共助の精神は、被災者の支えとなり、復興への大きな力となります。
専門家の山田太郎氏(災害心理学専門家)は、「災害時には、パニックに陥らず、冷静に行動することが重要です。また、地域コミュニティの繋がりを強化することで、災害時の助け合いをスムーズに行うことができます」と述べています。
震災の記憶を風化させないために
阪神・淡路大震災から30年近くが経ちましたが、震災の記憶を風化させないことが大切です。当時の経験を教訓として、防災意識を高め、災害に強い社会を築いていく必要があります。