足利尊氏といえば、室町幕府を開いた人物として知られていますが、その評価は時代によって大きく変遷してきました。逆賊と蔑まれることもあれば、英雄と称賛されることもあり、日本史上でも稀に見る毀誉褒貶の激しさを持つ人物と言えるでしょう。本記事では、足利尊氏の真実の姿に迫り、彼がなぜ「逆賊」という汚名を着せられたのか、その背景にある歴史的経緯を紐解いていきます。
足利尊氏への評価の変遷:逆賊から英雄へ?
戦前の日本では、尊氏は天皇に弓を引いた逆賊として扱われていました。これは、水戸学の影響が大きく、尊王攘夷論が幕末の政治運動の支柱となったことが背景にあります。文久3年の「足利三代木像梟首事件」は、その象徴的な出来事と言えるでしょう。等持院に安置されていた尊氏、義詮、義満の木像の首が晒され、「南朝に対する逆賊」と糾弾されたのです。
足利尊氏騎馬武者像
しかし、近年の研究では、この「逆賊」という評価は誤りであることが明らかになりつつあります。歴史評論家の香原斗志氏も、尊氏は後醍醐天皇への敬意を常に持ち続け、決して「逆賊」と呼べるような行為はしていないと指摘しています。尊氏の弟、直義との確執で知られる観応の擾乱も、尊氏が弟に大きな権限を与えたからこそ起きた悲劇と言えるかもしれません。
明治維新と南朝正統論:尊氏を逆賊にした真の理由
明治時代になると、国定教科書では南北朝時代を「南北両朝の対立」と表記し、どちらが正統かという評価は避けていました。しかし、読売新聞がこれに異議を唱え、南朝正統論を主張する論争が巻き起こります。この論争は政治問題化し、最終的に明治天皇の裁定によって南朝正統論が確定しました。
後醍醐天皇御像
しかし、この南朝正統論の根拠は、明治維新の理念である「天皇親政」と、後醍醐天皇が行った建武の新政が「天皇親政」を目指したものだったという、極めて単純なものでした。尊氏はそれに反したため「逆賊」とされたのです。実際には、明治政府の実権を握っていたのは薩長藩閥であり、「天皇親政」はあくまで建前に過ぎませんでした。つまり、尊氏は薩長藩閥の都合で「逆賊」のレッテルを貼られたと言えるでしょう。
足利尊氏の真意:後醍醐天皇への畏敬の念
建武の新政下で厚遇されていた尊氏が、後醍醐天皇側と対立するきっかけとなったのは、中先代の乱でした。鎌倉にいた弟の直義が乱を鎮圧できなかったため、尊氏が出兵し乱を平定します。しかし、このことが後醍醐天皇の不信を招き、尊氏追討の綸旨が発せられることになります。
歴史学者、森茂暁氏は著書『足利尊氏』の中で、尊氏は後醍醐天皇に対して「畏敬と追慕の念」を抱いていたと述べています。後醍醐天皇が尊氏を糾弾する激しい言葉を使ったのに対し、尊氏は決してそのような言葉を用いなかったことからも、その真意が伺えます。
尊氏:時代の流れに翻弄された英雄
尊氏は、時代の流れに翻弄され、結果的に「逆賊」という汚名を着せられた悲劇の英雄と言えるかもしれません。彼の真意は、現代の研究によって少しずつ明らかになりつつあります。私たちも、固定観念にとらわれず、歴史的事実を多角的に検証していく必要があるのではないでしょうか。