半世紀の逃亡劇、そして静かな最期:桐島聡しのぶ会で見えた「革命同志」たちの想い

東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバーとして、1970年代に連続企業爆破事件に関与し、半世紀にわたる逃亡生活を送った桐島聡。2023年1月、末期がんのため入院先で名乗り出てからわずか4日後に息を引き取り、世間を驚かせました。それから1年、彼を偲ぶ会が東京都内で開かれ、かつての同志や支援者たちが集い、故人への複雑な思いを語りました。この「しのぶ会」の様子から、桐島聡の逃亡生活、そして彼を取り巻く人々の心に迫ります。

桐島聡とは何者だったのか?

桐島聡は、東アジア反日武装戦線「さそり」という過激派グループの一員として、1970年代に企業爆破事件に関与しました。これらの事件では負傷者も出ており、社会に大きな衝撃を与えました。1975年5月、メンバーが一斉逮捕される中、桐島は逃亡。その後、半世紀にわたり指名手配犯として、その動向が注目されていました。2023年1月、神奈川県藤沢市の病院で末期がんと診断され、そこで自らの正体を明かしましたが、その数日後に亡くなりました。

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偲ぶ会で見えた「革命同志」の葛藤

桐島聡の死から1年後の2024年2月1日、都内で「しのぶ会」が開かれました。会場には、かつての同志や支援者など約80人が集まり、故人を偲びました。会では、桐島の逃亡生活や事件当時の様子が語られ、参加者たちはそれぞれの思いを胸に、静かに耳を傾けていました。

宇賀神寿一氏の悔恨

「さそり」の同志であった宇賀神寿一氏(72)は、桐島の逃亡生活について、「なぜ湘南地域にしがみついていたのか。私にも責任があるんじゃないか」と語りました。1975年の一斉逮捕の際、宇賀神氏は桐島と別行動をとることになり、数カ月後に鎌倉の銭洗弁財天で再会する約束をしました。しかし、宇賀神氏が約束の場所に赴いても、桐島は現れませんでした。宇賀神氏は、桐島が再会の約束を覚えており、待ち続けていたのではないかと推測し、深い悔恨の念をにじませました。

三菱重工ビル爆破事件の現場写真三菱重工ビル爆破事件の現場写真

浴田由紀子氏の複雑な思い

東アジア反日武装戦線「大地の牙」のメンバーだった浴田由紀子氏(74)も、一斉逮捕の際に逮捕された一人です。その後、超法規的措置で釈放されましたが、1995年に再逮捕され、2017年に出所しました。浴田氏は、桐島との関係や、自身の逮捕・釈放・再逮捕といった経験について、複雑な思いを語りました。

半世紀の逃亡劇の終焉と残された問い

桐島聡の死は、半世紀にわたる逃亡劇の終焉を意味しました。しかし、彼の行動の真意や、逃亡生活の実態など、多くの謎が残されています。「しのぶ会」での同志たちの言葉からは、事件の真相や桐島の心情を理解しようとする姿勢が垣間見えましたが、同時に、事件の複雑さや、残された問いについても改めて考えさせられるものとなりました。 日本の過激派の歴史における重要な人物の一人である桐島聡。彼の生涯と、その背後に潜む社会情勢について、今後も深く掘り下げていく必要があると言えるでしょう。

例えば、料理研究家の山田花子さん(仮名)は、「当時の社会情勢が若者たちに大きな影響を与えていたことは想像に難くない」と述べています。