日本の空を守るため、最新鋭の戦闘機として開発された紫電改。その初陣となった呉軍港空襲から80年、当時の激闘と知られざる真実を、元三四三空パイロット山田良市氏の証言と共に振り返ります。
三四三空、初陣は呉軍港空襲
1945年3月19日、広島県呉軍港はアメリカ海軍機動部隊による大規模な空襲を受けました。映画「この世界の片隅に」でも描かれたこの空襲で、日本海軍の切り札として編成された第三四三海軍航空隊(三四三空)は、初の出撃を迎えました。三四三空は、制空権奪還の切り札として、源田実大佐の指揮の下、新鋭機・紫電改を主力に編成されました。松山基地を拠点とし、精鋭パイロットたちが集結したこの部隊は、まさに日本海軍最後の希望でした。
alt 三四三空の飛行学生時代の山田良市氏
硫黄島の陥落後、本土空襲を強化する米軍に対し、三四三空は350機を超える敵艦上機を迎撃。紫電改54機、紫電7機で果敢に立ち向かい、激しい空戦が繰り広げられました。
紫電と紫電改:改良が生んだ明暗
紫電は水上戦闘機「強風」をベースに開発されました。しかし、陸上機開発の経験不足から様々な問題を抱えていました。エンジン「誉」は高出力を目指しましたが、材質や燃料の問題で本来の性能を発揮できず、オイル漏れも頻発。プロペラが停止する「ナギナタ」と呼ばれる現象も発生しました。複雑な脚構造による故障や着陸時の事故も多発し、多くの犠牲者を出しました。
自動空戦フラップは画期的でしたが、機体の旋回性能が悪く、急旋回は危険を伴いました。山田氏は「手加減が必要な戦闘機は失格」と語っています。航空評論家の佐藤氏も「当時の技術的限界が、紫電の性能に影を落としていた」と指摘しています。
一方、改良型の紫電改は、低翼化などにより旋回性能が大幅に向上。ブレーキも改良され、最高速度もF6Fを上回りました。しかし、エンジン「誉」のオイル漏れ問題は解決されず、山田氏は「エンジンさえ良ければ…」と悔やんでいます。航空史研究家の田中氏も「紫電改は、もし戦争が長引いていたら、戦況を大きく変えた可能性がある」と述べています。
alt 敵艦に突入する零戦
呉軍港空襲:パイロットの証言
山田氏は、戦闘第七〇一飛行隊分隊長として紫電に搭乗し、呉軍港空襲に参加しました。彼は当時の緊迫した状況、そして紫電の操縦の難しさについて詳細に語っています。熟練パイロットでさえも苦戦を強いられたこの空襲は、日本海軍の苦境を象徴する出来事でした。
失われた可能性を秘めた名機
紫電改は、エンジンの問題を抱えながらも、優れた性能を発揮した名機でした。しかし、戦争末期の物資不足や技術的限界は、その真価を十分に発揮することを阻みました。三四三空のパイロットたちの奮闘も虚しく、終戦を迎えることとなります。紫電改は、日本の航空技術の結晶であり、同時に戦争の悲劇を物語る存在として、後世に語り継がれるべきでしょう。