特攻を「命じる側」と特攻を「命じられる側」
特攻を「命じる側」と「命じられる側」の温度差を物語るエピソードがある。
昭和20年3月21日、第七二一海軍航空隊(神雷部隊)桜花隊の第一回出撃が失敗に終わり、4月6日「菊水一号作戦」と称して、沖縄沖の米艦隊に対する航空総攻撃が実施されたときのこと。中島正中佐が、「作戦主任」の肩書きで神雷部隊に着任してきた。
中島は前年10月、フィリピンで最初の特攻隊を出撃させて以来、戦場にあって誰よりも熱心に「特攻」を推進し、多くの部下を容赦なく特攻隊員として送り出した。もとは戦闘機乗りで、ガダルカナル戦初期には台南海軍航空隊飛行隊長をつとめたが、飛んで戦う配置を離れて2年以上、その間に敵機は段違いに強くなり、戦局は大きく動いている。中島はまた、硫黄島やフィリピンで、地上で戦闘機隊を指揮する立場でありながら発進命令を下すのが遅れ、そのために日本側が大敗を喫したことで、部下たちからは「勝負勘がない」「アメリカ軍のスパイじゃないか」とまで言われている。
その中島が、鹿屋基地の一角に桜花隊員と零戦特攻隊員を集め、敵艦への突入要領を指導した。
「ダイブ角は45度から60度。突入点は母艦(空母)なら飛行甲板、戦艦なら煙突か艦橋を狙え!」
飛行士の操縦する恐怖のロケット爆弾
だが、解散を命じて中島が去った後、桜花隊分隊長の林冨士夫大尉が隊員たちをふたたび集合させ、即座に中島の言葉を否定した。
「ただいまの中島中佐の訓示は全部取り消す。中島中佐は飛ばないからわからない。高い角度のダイブは不可能、20度か30度がせいぜいである。突入は敵空母の舷側を狙え。艦が傾けば飛行機の発着艦はできないから、一時的にも制空権をつかむことができる。できれば舵故障を狙って艦尾に突っこめ。航行不能になれば味方の潜水艦がとどめを刺してくれるだろう」
桜花の存在とその出撃が大本営からはじめて国民に知らされたのは5月28日、午後7時のラジオニュースでのことだった。
それまでにも、5月2日の新聞各紙に4月27日リスボン発同盟通信の配信記事として、
〈飛行士の操縦する恐怖のロケット爆彈 わが新兵器沖縄戰に出現〉
との見出しで、桜花の存在を匂わせる外電のベタ記事が掲載されたことがあったが、桜花の詳細については初出撃から2ヵ月以上ものあいだ、国民に伏せられていた。