アントニオ猪木、その名は日本プロレス史に燦然と輝くレジェンド。しかし、彼の輝かしいキャリアの原点は、ブラジルでの少年時代にあったことをご存知でしょうか?この記事では、猪木氏の弟である猪木啓介氏の著書『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)を参考に、力道山との運命的な出会い、そしてブラジルに残された家族の物語を紐解いていきます。猪木氏の偉大なる足跡を辿りながら、当時ブラジルで芽生え始めた空手、柔術といった格闘技文化についても触れていきます。
ブラジルから日本へ:力道山との出会い
ブラジルで家族とともに暮らしていた猪木少年は、力道山に見出され、プロレスラーへの道を歩み始めます。これは彼の人生における大きな転換点でした。ブラジルに残った家族と離れ離れになりながらも、猪木氏は日本のプロレス界のスターダムへと駆け上がっていきます。
力道山と猪木
猪木家の兄弟たち、ブラジルでの挑戦
猪木氏の兄である寿一氏と宏育氏は、それぞれサンパウロとリオで空手道場を開きました。当時ブラジルでは空手はまだ認知度が低く、道場を開くとブラジリアン柔術の猛者たちが道場破りに来るのが常でした。グレイシー柔術をはじめとするブラジリアン柔術は、日本人柔道家、前田光世(コンデ・コマ)によってブラジルに伝えられたとされています。猪木氏の兄たちは、こうした挑戦者たちを返り討ちにすることで、空手の強さを証明し、道場を繁栄させていきました。
また、別の兄である快守氏は、義理の家族が経営する業務用洗濯機の営業の仕事に就きました。これは当時ブラジルの日系人社会では一般的な仕事でした。
猪木啓介氏自身は、大学に通いながら、サンパウロのリベルダージ(日本人街)で日本の民芸品を扱う仕事を始めました。漆器や日本人形などを日本から仕入れ、観光客に販売するビジネスは成功を収め、後に彼のライフワークとなりました。
プロレス情報と家族の絆
遠く離れたブラジルで、家族は日本のプロレス雑誌を通じて猪木氏の活躍を知ることになります。しかし、駆け出しの頃の猪木氏に関する記事は少なく、手紙も簡素なものでした。当時のブラジルにもプロレスはありましたが、サッカー王国ブラジルではメジャーな娯楽とは言えず、日本のプロレスとは異なる様相を呈していました。力道山の「空手チョップ」は、外国人レスラーを倒すというある種のナショナリズムを帯びていましたが、ブラジルのプロレスはメキシコのルチャ・リブレのようなエンターテイメント性の高いものでした。
猪木寛至からアントニオ猪木へ:スターへの道のり
日本での猪木氏の活躍は、ブラジルにいる家族にとって大きな誇りでした。遠く離れていても、家族の絆は固く結ばれていました。猪木寛至という一人の青年が、アントニオ猪木というプロレス界のアイコンへと成長していく物語は、多くの人の心を掴み、そして今もなお語り継がれています。
まとめ:力道山との出会い、そして家族の物語
この記事では、アントニオ猪木氏のブラジル時代、力道山との出会い、そしてブラジルに残された家族の物語についてご紹介しました。猪木氏の成功の裏には、家族の支え、そしてブラジルでの経験があったと言えるでしょう。彼の物語は、私たちに夢を追いかける勇気と、家族の大切さを教えてくれます。