中学・高校に通えず少年工として6年間工場勤務、最底辺からはい上がってきた李在明大統領


【少年工から大統領】李在明大統領の経歴

 少年工として6年間に6カ所の工場を渡り歩いた。野球グラブを製造する工場では皮をプレスする機械に挟まれ左腕を大けがした。まともな治療が受けられなかったため左腕は徐々に曲がり、障害等級6級が認定され、兵役は免除された。李在明大統領はこの頃2回自殺を試み、睡眠薬を買い求めようとしたが、少年・李在明に薬局の薬剤師は睡眠薬と偽って胃薬を出し、命は助かった。

 李在明大統領は工場で自分をいじめる上司が高卒だったことを知り、中卒検定試験の勉強を始めた。工場で管理職になるためだった。このように苦しみながら勉強を続け、1978年に中卒、1980年に高卒検定試験に合格した。高卒の資格を手にすると、今度は大学に行きたくなったという。李在明大統領は当時、眠気を克服するため机に画びょうを置いて1日2時間睡眠で大学入学試験に向け準備を続けた。

 李在明大統領は1982年に全額奨学金と毎月の生活費20万ウォン(現在のレートで約2万1000円、以下同じ)の支援を受ける条件で中央大学法学部に入学した。大学を卒業した1986年に第28回司法試験に合格した。司法研修院では判事・検事になれる成績だったが、あえて弁護士を選んだ。進路を選択する前に「検事になろうか」と少し考えたという。しかし大学時代に学生運動に参加しなかったことに引け目を感じ、また研修院で当時弁護士だった盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の講演を聴いて人権弁護士になることを決めたという。判事や検事になることを願っていた母には「判事・検事になるには研修院の成績が足りなかった」とうそを言ったそうだ。

 李在明大統領は司法研修院を修了した1989年、城南市に弁護士事務所を開設した。京畿道利川・広州の労働相談所長も歴任した。弁護士であると同時に市民活動家としての経歴をスタートしたのだ。城南市盆唐パークビュー特恵分譲事件を告発し、城南市立病院設立運動でもリーダーとして活動したが、その過程で政治参加を決意したという。李在明大統領は城南市民の署名を集め市立病院設立条例案を提出したが、市議会でわずか47秒で否決された。これに市民が抗議しもみ合いとなったため、そのリーダー格だった李在明大統領に手配令が出された。当時の状況について李在明大統領は「住民教会の地下にあった祈祷(きとう)室に隠れて数日悩んだ末に、私が市長になって私の手で病院を建設することを決意した」と説明した。



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