顔を見るだけで、名前を聞くだけで、あるいは考えるだけでなんとも言えないいやな気持ちになる「あの人」。誰の頭の中にも、一人や二人は住みついているものです。他人から「気にするな」とアドバイスされても、そう簡単にはいきません。「気にしたくないのに、どうしても気になってしまう」。むしろ、考えないようにすればするほど、頭から離れなくなってしまう経験は多くの人が抱えています。
「あの人のことは、あまり気にしないほうがいいよ」「考えすぎだから、無視したほうがいいんじゃない?」「気にしなければいいだけだよ」――こうした言葉は、悩みを聞いた相手が善意から伝えていることが多いでしょう。しかし、これらのアドバイスは脳科学的に見ると、実は最悪であり、逆効果になりやすいことがわかっています。人の脳は、「気にするな」と強く意識するほど、かえってその対象に固執してしまう仕組みを持っているからです。
頭に住み着いた「あの人」を忘れようとする脳の働きを示すイメージ図
「気にするな」はなぜ逆効果なのか?
私たちは、ある対象について「考えてはならない」と意識的に思考を抑制しようとすると、かえってその対象が頭の中に頻繁に浮かんでくるという現象を経験します。これは「思考抑制の逆説的効果(Paradoxical effects of thought suppression)」、あるいは「リバウンド効果」と呼ばれています。
白クマ実験とその衝撃
この現象を鮮やかに示したのが、1987年に心理学者のダニエル・ウェグナー博士が行った有名な「白クマ実験」です。この実験では、被験者を二つのグループに分けました。
一方のグループには、「これから5分間、白いクマのことを絶対に考えないでください。もし白いクマが頭に浮かんだら、合図をしてください」と指示しました。もう一方のグループには、「これから5分間、白いクマのことを自由に考えてください。浮かんだら合図をしてください」と指示を与えました。
結果は驚くべきものでした。「考えてはならない」と指示されたグループの被験者たちは、「自由に考えてよい」と指示されたグループの約2倍も頻繁に、白いクマについて思考が浮かんだと報告したのです。さらに、実験後のインタビューでは、「考えないように必死になればなるほど、かえって白いクマのイメージが鮮明になった」という証言が多く寄せられました。
この白クマ実験は、私たちの思考がいかに意識的なコントロールに従わないことがあるかを示し、心理学や脳科学の研究に大きな影響を与えました。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた近年の研究でも、「考えないようにする」という思考抑制の試みが、脳の特定の部位(例えば、前帯状皮質など)を逆に活性化させることが明らかになっています。これは、脳が無意識のうちに「考えてはならない対象」を監視し続け、その結果として、かえって意識に上りやすくしているためだと考えられています。
職場での人間関係の悩みや、家庭内の問題、過去の嫌な出来事など、ストレスの原因となる「あの人」や「あのこと」について、「気にしないようにしよう」「忘れよう」と意識的に努めることは、このリバウンド効果により裏目に出てしまう可能性が高いのです。
まとめ
「あの人」が頭から離れず悩んでいる人に対し、「気にしないのが一番だよ」というアドバイスは、残念ながら脳の自然な働きに逆らうものであり、多くの場合、期待通りの効果が得られず、かえって苦痛を増してしまう可能性があります。白クマ実験が示すように、意識的な思考抑制はリバウンド効果を引き起こし、対象への固執を強めてしまいます。この脳科学的なメカニズムを理解することは、「あの人」にまつわる悩みへの新たな向き合い方を探る第一歩となるでしょう。
参考資料
- 『あの人を脳から消す技術』 築山節 (サンマーク出版)