部活動の地域移行(現在は「地域展開」)が本格的に進む中で、吹奏楽部においてもその運営や活動形態のあり方が検討されています。【前編】では、日本の吹奏楽が抱える危機的状況の背景に、「本質や定義」の議論が不足していた点を指摘しました。本稿では、吹奏楽コンクールや日々の指導法における問題点を深掘りし、今後の地域展開においてなぜ「音楽的な基礎教育」が不可欠となるのかについて論じます。特に、審査基準や指導法の曖昧さが、吹奏楽の質の向上を妨げている可能性について詳述します。
吹奏楽部の練習風景:部活動の地域移行と教育の質
コンクール課題曲の質に対する懸念
現代日本吹奏楽が抱える特有の問題の1つとして、コンクール課題曲の質の低下が指摘されています。指揮者の下野竜也氏は、専門誌『パイパーズ』で「近年の課題曲は酷いものが多すぎる。一般公募で良いものはほとんど見当たらない」と強い懸念を示しました。また、吹奏楽作曲家の鈴木英史氏も、自身のコラムで「音楽的深みを見出せる、音楽的課題を投げかける委嘱作品が敬遠される傾向にある」と危機感を募らせています。さらに作曲家の伊藤康英氏は、SNS上で課題曲について詳しく言及し、「明らかな和声の誤り、全体の調性の構造のアンバランス、メロディと対旋律とのぶつかり方の明らかなミスがある」と具体的に批判しています。こうした著名な音楽家からの批判が集中することは、前編で触れた三摩氏の研究が示唆する「吹奏楽人の音楽感性の不確実さ」とも無関係ではないでしょう。
指導法における理論的な説明の欠如
吹奏楽の様々な指導法においても、物理的・音楽的に普遍的な事実に裏打ちされた説明が極めて少ないのが現状です。例えば、合奏中に「音程やリズムを合わせなさい」と指示されることは頻繁にありますが、「なぜ合わせる必要があるのか」「合わせることでどのような音楽的効果が生まれるのか」といった、その根拠や目的を論理的に解説した指導書や記述はほとんど見当たりません。本来であれば、音程やリズムを正確に合わせることで合奏の響きの「濁り」が減少し、そこから生まれる豊かな音色や表現の変化が、作曲技法における和声の進行と結びつき、音楽的なイマジネーションを深めるという、極めて重要な目的があるはずです。しかし、この「なぜ」が説明されないまま指導が行われていることが多いのです。
吹奏楽コンクール審査基準の曖昧さと「プリンシプル」の欠如
さらに、吹奏楽コンクールの審査方法も長らくその主観性が指摘されてきました。特に数年前まで、全国大会で1団体が課題曲と自由曲を演奏するにもかかわらず、両曲を総合して「A・B・C」の3段階評価とする方式は、その評価の根拠が不明確であるとして批判の対象でした。2024年にこの方式は改善され、課題曲と自由曲それぞれが「A・B・C」で評価される形にはなりましたが、根本的な曖昧さが解消されたとは言えません。もちろん、音楽そのものを数値化して評価することの難しさは広く認識されています。しかし、全日本吹奏楽連盟が示す「審査の観点」は、文字通りあくまで「観点」を示すにとどまり、具体的にどのような要素が高評価に繋がるのか、あるいは何を基準に優劣がつけられるべきなのかといった詳細な基準は明示されていません。審査基準の細目が設定されていないということは、そのコンクールが「吹奏楽が進むべき方向性」、すなわち明確な「プリンシプル」(原理・原則)を持っていないことと同義とも言えます。これは「多様性」とは異質な、「曖昧さ」に他ならないのではないでしょうか。これもまた、三摩氏の研究が明らかにした吹奏楽審査の曖昧さの要因の一つとして挙げられます。
これらの課題曲の質の懸念、指導法における論理的根拠の欠如、そして審査基準の曖昧さは、日本の吹奏楽界が音楽的な基礎教育の重要性にもっと目を向けるべきであることを強く示唆しています。部活動の地域展開という大きな変化を迎える今こそ、単に技術を習得するだけでなく、演奏する楽曲の「質」を見極める音楽的な素養や、音の響きや和声進行に意識を向けられる音楽的な感性を育む「音楽基礎教育」の充実が不可欠であると確信します。地域における新しい吹奏楽のあり方を模索する上で、音楽の本質に根ざした教育こそが、将来にわたって吹奏楽の価値を高め、持続可能な発展を支える鍵となるでしょう。
参照元
- Yahoo!ニュース (東洋経済education × ICT): 指導法やコンクールの審査基準が「曖昧で主観的」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c2002336cb9e933337692d476807c2f683ee7db