太平洋戦争末期、苛烈を極めた沖縄戦では、多くの住民が犠牲となりました。一度米軍に保護された後、故郷に戻った住民たちが今度は日本軍の監視下に置かれ、戦争の真実(米軍に捕らえられても殺されない、日本軍の劣勢など)を語った人々がスパイと見なされ殺害されるという悲劇が発生しました。同時に、米軍による住民虐殺も報告されていますが、本記事では特に日本軍が自国民である住民に行った虐殺行為に焦点を当て、その凄惨な実態をお伝えします。
各地で報告された日本軍による住民虐殺
沖縄本島北部においても、日本軍による住民虐殺は各地で発生しました。大宜味村では、米軍に一度捕らえられた元巡査が山に逃げ戻り、日本が負けている現状を話したところ、スパイとして日本兵に殺害されています(大宜味村史より)。
読谷村から避難してきた住民が、米軍の支配下に入るため山を下りていた際、スパイと見なされた4、5人が日本兵によって手首を縛られ、めった斬りにされました。あたり一面に血が飛び散る、目を疑うような地獄の光景であったと記録されています(国頭村史『くんじゃん』より)。
また、米軍の田井等収容所(現在の名護市)に収容されていた住民4人が、自分の集落に戻ろうとした途中で日本軍によって斬殺される事件も起きています(国頭村史『くんじゃん』より)。米軍に保護されて自宅に戻っていた家族の家に日本兵が手榴弾を投げ込み、女性が犠牲になったため、他の住民たちは米軍と相談の上、別の収容所に避難せざるを得ない状況もありました(国頭村史『くんじゃん』より)。このように、一度米軍に接触した住民は「スパイ」と見なされて殺害される傾向にあり、むしろ米軍が日本兵から住民を保護しようとするケースも見られました。
看護婦たちに「アメリカ兵が来たら手をあげれば助かる」と助言した住民が、その言葉を聞いた日本兵によって殺害されたという証言も残されています(名護市史『語り継ぐ戦争』より)。さらに、ハワイからの帰郷者である兄弟が、米軍収容所から山に隠れていた親戚に方言で投降を呼びかけたところ、それを耳にした地元の防衛隊員が日本軍将校に密告し、兄弟は虐殺されました(名護市史『語り継ぐ戦争』より)。これは、軍と県が住民同士を相互監視させ、密告を奨励した結果として起きた悲劇の一例です。
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大宜味村渡野喜屋における集団虐殺事件
北部における日本軍による大規模な住民虐殺事件として、大宜味村渡野喜屋の事件があります。1945年5月12日深夜、米軍に保護されていた数十人の女性や子どもたちが日本兵によって浜辺に集められ、手榴弾が投げ込まれました。この蛮行により35人が死亡、15人が負傷しました。さらに、別の場所に連れて行かれた数人の男性も刺殺されるなど、凄惨な方法で命を奪われています。この虐殺は、国頭支隊通信隊(隊長:東郷少尉)によって行われたとされています(旧沖縄県史、沖縄県史、森杉多『空白の沖縄戦記』、三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』などに詳述)。
民間人の虐殺だけでなく、日本兵は時に銃剣で住民を脅し、イモなどの食糧を強奪しました。あるいは、「これから斬り込みに行く」などと言って、住民に食糧の提供を強要する例もありました(大宜味村史より)。
1945年5月付けの米軍政府の報告書には、次のような記述が見られます。「米軍が彼らに危害を加えず食糧を与えるのだと分ると住民は従順で協力的になり、他の民間人に対して隠れ家から出てくるよう熱心に働きかけるようになった」「この協力関係は山中に留まる日本兵にとって極めて忌々しき事態であり、彼らは民間人に対して凄惨な虐殺を働いた」と報告されています。また、米軍は民間人を日本軍から避難させたものの、日本兵からの復讐を恐れて再び山中などに戻ってしまう人々がいることも記されています(名護市史『語り継ぐ戦争』より、米軍政府報告書)。
参考文献
- 大宜味村史
- 国頭村史『くんじゃん』
- 名護市史『語り継ぐ戦争』
- 旧沖縄県史
- 沖縄県史
- 森杉多『空白の沖縄戦記』
- 三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』
- 米軍政府報告書(1945年5月分)
これらの証言や報告書は、沖縄戦において住民が直面した過酷な現実を物語っています。日本軍は住民を保護するどころか、時に監視し、真実を語る者をスパイとして処刑し、食糧を奪い、さらには組織的な虐殺まで実行しました。米軍が住民保護に動いたケースもあったという報告もあり、住民は両軍の間で翻弄され、筆舌に尽くしがたい苦難を強いられました。沖縄戦の悲劇を深く理解するためには、こうした住民視点の真実を知ることが不可欠です。