昭和40年代、日本全国で交通事故を装い多額の現金を詐取していた「当たり屋家族」。息子に怪我をさせるという衝撃的な手口で荒稼ぎした彼らの悪行がどのように暴かれ、逮捕に至ったのか、そしてその後家族に待ち受けていた過酷な運命とは。前編に続き、今回は事件の終結とそれぞれの人生を追います。「当たり屋家族」による衝撃的な事件の全貌に迫ります。
交通事故詐欺「当たり屋家族」事件に関連するイメージ写真
全国に広がる被害と逮捕の瞬間
1966年(昭和41年)8月、数ヶ月にわたり全国各地で発生していた類似の当たり屋被害について新聞が報道し、警察には多くの情報が寄せられました。鳥取県での現場検証の写真が紙面に掲載されたことも、犯人特定に繋がる重要な手がかりとなりました。そして同年9月2日深夜、ついに主犯格とみられる大森(当時44歳)と竹子(当時37歳)が大阪市内で逮捕されました。彼らはこの時、当たり屋稼業から足を洗い、大阪市西成区の文化住宅で新たな生活を始めたばかりでした。
逮捕当初、二人は曖昧な供述に終始しましたが、最終的には全国で47件もの当たり屋行為を行い、現在の貨幣価値で約500万円にも上る金額を詐取した事実を詳細に自供したのです。この金額は、当時の物価を考慮すると莫大なものでした。
息子・敏男の告白
一方、当時10歳だった息子の敏男は、当初は「何も知らない」「車にぶつかったことはない」と一貫して犯行を否定しました。特に、当たり屋行為における指示役であった継母の竹子について問われた際には、「お母ちゃんはいい人や」と庇ったといいます。
しかし、逮捕から数日後、敏男は遂に重い口を開き、真実を告白しました。「両親に言われるがまま車に当たっていた。最初にやったときはとても怖かったが、5、6回繰り返すうちに慣れてしまい、車に触れる前に倒れるようになり、ほとんど怪我をすることはなかった」と、子どもながらに犯罪行為に加担し、感覚が麻痺していった過程を詳細に供述したのです。子どもの証言は、この事件の異常性を浮き彫りにしました。
「当たり屋家族」それぞれのその後
この衝撃的な「当たり屋家族」事件は、その後、実際に起きた出来事を題材とした映画の元ネタにもなりました。映画は、警察に連行される一家が現場検証に向かう列車のシーンで幕を閉じますが、現実の家族それぞれの人生はさらに過酷なものでした。
報道によれば、主犯であった父親の大森は刑期を終え出所後、行商をしながら24歳年下の女性と暮らしたものの、生活は長続きせず行方不明になったとされています。継母の竹子は37歳の若さで子宮がんのため死去しました。当時3歳で保護された末っ子のチビは親族に引き取られましたが、職業訓練校に通っていた16歳の時に不慮の交通事故で命を落としています。そして、事件後親族のもとに身を寄せた敏男もまた、中学校卒業後に運送会社に就職し長距離トラックの運転手となり、14歳年上の女性と結婚し家庭を持ったそうですが、現在の消息は伝えられていません。
まとめ
「当たり屋家族」が起こした一連の詐欺事件は、多くの被害者を生んだだけでなく、彼ら自身の家族にもあまりにも悲惨な結末をもたらしました。一時的な金銭欲のために犯罪に手を染めた代償は大きく、彼らのその後の人生に暗い影を落とし続けたと言えるでしょう。この事件は、社会の歪みと、それに巻き込まれた個人の悲劇を今に伝えています。
参照:文庫新刊『映画になった恐怖の実話Ⅲ』(鉄人社)を基に構成