なぜ?旧日本軍七三一部隊は防疫から細菌兵器開発へ:日中戦争の深層

日中戦争の最中、旧日本軍には細菌兵器の研究・開発のため、中国で繰り返し人体実験を行った部隊が存在しました。軍医・石井四郎が指揮を執った悪名高い「七三一部隊」は、建前上は戦地における衛生的な飲料水確保を目的とする「防疫給水」の任務に就いていました。しかし、なぜ彼らはその本来の目的と真逆の、細菌兵器開発に手を染めることになったのでしょうか。本稿では、愛知学院大学文学部歴史学科の広中一成准教授による『七三一部隊の日中戦争』(PHP新書)から一部を再編集し、その知られざる転換点に迫ります。

旧日本軍七三一部隊の施設跡地、中国平房にある細菌兵器研究施設の残骸。旧日本軍七三一部隊の施設跡地、中国平房にある細菌兵器研究施設の残骸。

日本軍を苦しめた「見えない敵」:伝染病の実態

七三一部隊が元々、細菌感染を防ぐ「防疫給水」を担っていたにもかかわらず、なぜ被害を拡大させる細菌戦の研究へと傾倒していったのか。その背景には、日本軍が過去に伝染病によって甚大な被害を受けてきた歴史があります。

第二次世界大戦中、第十一防疫給水部員として任務に当たっていた吉野秀一郎は、『菊の防給』所収の「防疫給水部とは」の中で、日本軍が防疫給水の必要性を認識したきっかけについて次のように述べています。

「明治27、8年の日清戦争以来、日本陸軍が大陸で戦斗行動を行なった際の日本軍の受けた損害の内訳は、敵弾による戦傷者の数よりも、当時戦地で流行していた伝染病による戦病者の数が常に上廻っており、兵力を維持するためには如何に戦地における防疫が必要であり重要であるかを示していた。しかも、伝染病による戦病患者の大部分が飲食物による胃腸系の伝染病であった事から、これを解決するためには細菌に汚染されていない無菌、無毒の水を大量に作って第一線の将兵に十分に供給することが必要であった」

石井式濾水機の模式図。旧日本軍が戦地で衛生的な飲用水を確保するために開発した装置の概要。石井式濾水機の模式図。旧日本軍が戦地で衛生的な飲用水を確保するために開発した装置の概要。

日清戦争の悲劇:コレラが奪った命

日清戦争における伝染病と言えば、当時第二軍軍医部長を務めていた森林太郎(森鷗外)が、軍内で多発した脚気を細菌感染によるものであると主張したことが有名です。実際には栄養の偏った陸軍の兵食に原因がありましたが、吉野が指摘した伝染病は脚気ではありません。日清戦争で多くの日本兵の命を奪った細菌は、当時満洲で猛威を振るっていた「コレラ」でした。

コレラはインドのベンガル地方を発祥地とする代表的な経口感染症の一つで、コレラ菌に汚染された水や食物を摂取することで感染します。通常1日以内の潜伏期間で発症し、激しい下痢が続いて脱水症状を招きます。さらに悪化すると、血圧の低下、意識消失、低カリウム血症による痙攣などを引き起こし、最悪の場合死に至る危険性があります(「コレラ」、国立健康危機管理研究機構ホームページより)。

日本の大陸進出と伝染病との関係について研究した加藤真生氏の「日清戦争におけるコレラ流行と防疫問題」(『日本史研究』第六八九号所収)によると、日清戦争における日本軍の戦死者数1万3488人のうち、戦病死者はその約9割に及ぶ1万1894人でした。さらに、その半数以上にあたる5000人以上がコレラで命を落としていたのです。感染源は大陸に兵員を輸送するために調達された船内に貯められた飲料水でした。遼東半島や山東半島、台湾の澎湖島の港湾で感染者が現れ、まもなく部隊全体にコレラが蔓延しました。

香港で猛威を振るった腺ペストの脅威

さらに、日清戦争開戦と同じ1894年、香港で中国雲南省からもたらされた「腺ペスト」が大流行します。

腺ペストは、ペスト菌を保有するノミによる吸血、あるいはペストに侵されたネズミなどの動物との接触により、傷口や粘膜から感染するヒトペストの一種です。潜伏期間は1日から1週間で、発症するとペスト菌が感染部のリンパ節内で増殖し、リンパ節組織の壊死や腺腫(リンパ腺炎)が生じます。この腺腫は触れると激しい痛みを伴います。

さらに、ペスト菌が肺で増殖すると肺ペストとなり、飛沫を介して人から人へ感染するようになります。血流中で菌が増殖し全身に回ると敗血症ペストとなり、全身に黒色の出血斑が現れるのが特徴です。14世紀にユーラシア大陸と北アフリカ大陸で猛威を振るい、甚大な被害をもたらした「黒死病」は、この腺ペストから派生した敗血症ペストであったとされています(「ペスト」、国立健康危機管理研究機構ホームページより)。

香港に到達したペスト菌は、香港政庁の厳しい検疫網をすり抜け、中国人労働者や船舶に乗って中国沿岸部の港湾都市を次々と襲いました。そして、1899年には満洲唯一の開港場であった営口で初めて感染者が確認されるに至ったのです(『感染症の中国史』より)。

結論

旧日本軍が直面した伝染病による壊滅的な被害は、当時の軍医や指導層に衛生管理と防疫の重要性を強く認識させました。しかし、この「見えない敵」への対策研究は、やがて防御という枠を超え、細菌そのものを兵器として利用するという、倫理的に許されざる開発へと転じていきます。七三一部隊が防疫の任務から細菌兵器開発へと舵を切った背景には、日清戦争やその後の疫病流行で得られた、感染症の破壊力に対する軍の「経験」と、それを「利用する」という発想が潜んでいたと言えるでしょう。これは、人道に反する行為がいかにして生まれたのかを理解するための、歴史の重要な一側面を示しています。

参考文献

  • 広中一成 (2023). 『七三一部隊の日中戦争』 PHP新書.
  • 吉野秀一郎. 「防疫給水部とは」. 『菊の防給』所収.
  • 加藤真生. 「日清戦争におけるコレラ流行と防疫問題」. 『日本史研究』第六八九号.
  • 国立健康危機管理研究機構ホームページ. 「コレラ」. (参照日: 2024年X月X日)
  • 国立健康危機管理研究機構ホームページ. 「ペスト」. (参照日: 2024年X月X日)
  • 飯島渉 (2008). 『感染症の中国史:疫病と医療の戦略』 中公新書.