長野県で太平洋戦争中、女子挺身隊員として軍需工場に動員された女性の貴重な史料が発見されました。これは、当時の女性たちが直面した厳重な管理と過酷な労働の実態を詳細に示し、研究者からも「女性の戦争への動員について、実態を明らかにする上で貴重な史料」と高く評価されています。本記事では、この新発見史料が語る戦時下の現実とその歴史的意義を探ります。
16歳で軍需工場へ:若き女性の勤労動員
長野県埴科郡坂城町の金子司さん(66)宅で見つかった史料は、金子さんの伯母にあたるたついさん(2017年死去)が、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に16歳で上田市立高等女学校(現上田千曲高校)を卒業後、鐘淵工業(旧カネボウの前身)上田工場(現「アリオ上田」の場所)の寄宿舎に入り、女子挺身隊員として勤労奉仕に従事した記録です。同工場には飯田高等女学校(現飯田風越高)からも学徒動員されており、戦時下の若き女性が国の総力戦体制に組み込まれていった実態を伝えます。
過酷な実態を物語る数々の新史料
金子さんが2023年11月に自宅の土蔵や仏壇を整理中に発見したこれらの史料は多岐にわたり、当時の厳しい生活を物語ります。外泊や寄宿舎への帰舎を父親に知らせる通知、毎月初めに実家宛てに送られた「家庭通信」、勤務状況を詳細に記した「成績表」などが見つかりました。さらに、当時の女子挺身隊の精神を象徴する歌「輝く黒髪」の歌詞が書かれた紙や、「長野県女子勤労挺身隊」の標章と名称が記された布なども含まれており、当時の統制された生活を示す貴重な一次資料です。
長野県坂城町の金子司さんが太平洋戦争中に伯母の女子挺身隊に関する貴重な史料を調査する様子
退職不能と休日なき極限労働
「家庭通信」や「成績表」からは、女性たちが直面した極めて厳しい労働環境が読み取れます。1944年12月度の家庭通信では、翌1945年1月は2日が始業式、3日から生産が開始されたと記されており、正月休みがほぼなかったことが示唆されます。
また、同年12月の「女子工員徴用令達式」の記載は、動員の強制性を浮き彫りにします。「男子が召されて第一線に征かれる事と何等変(なんらかわ)りなく女性の名誉と言ふべき」と述べられ、一度動員されたら「勝手な理由にて退職出来ません」とされ、結婚や特別な家庭の事情以外は認められず、退職には県知事の認可が必須となるなど、個人の自由が極度に制限されていました。「成績表」の「本人ハタライタ日数」が「28」日と記され、「皆勤手当」が支給されていた記録は、ひと月にほとんど休日なく働かされていた実態を示します。
空腹と故郷への切実な思い
たついさんが実家に宛てたはがきには、「お腹がすいて困ります」「『モンペ』が痛んで来て困って居ます」といった切実な訴えがあり、当時の食料不足や物資の欠乏、そして労働の過酷さが伝わります。はがきからはまた、一時帰宅を心待ちにするたついさんの心情がにじみ出ており、金子さんは「一般の女性たちが戦争に巻き込まれていった実態が伝わる」と語っています。これらの発見は、これまで漠然と語られがちだった戦時下の女性の勤労動員について、具体的な個人レベルでの体験を明らかにし、その実態を深く理解するための貴重な手がかりとなります。
今回の女子挺身隊に関する史料発見は、太平洋戦争下の日本において、多くの若き女性たちがどのように国家総動員体制に組み込まれ、その自由や生活が制限され、過酷な労働に従事させられたかを生々しく伝えています。これらの一次資料は、単なる歴史的記録に留まらず、戦争が個人の生活に与える甚大な影響、特に女性たちの知られざる苦難に光を当てるものです。今後のさらなる研究や公開を通じて、戦時下の日本社会の多様な側面の理解が深まることが期待されます。
Source link: Yahoo!ニュース(信濃毎日新聞)