「市民のための政治、市民ファーストを実現する」と、2025年5月の市長選で高らかに宣言し当選を果たした伊東市長の田久保眞紀氏(55)は、就任直後から予期せぬ「学歴詐称」疑惑に直面している。この疑惑は伊東市政に深刻な混乱をもたらし、市民からの抗議が殺到する事態に発展。一度は辞意を表明したものの、後に撤回するという異例の展開を見せ、その背景には何があるのか、市民の関心は高まるばかりだ。
伊東市長・田久保眞紀氏に浮上した「学歴詐称」疑惑の全容
田久保市長が窮地に陥ったのは、当選からわずか1カ月も経たない6月初旬のことだった。市の広報誌で「東洋大学法学部卒業」と紹介されていた彼女の学歴について、「中退どころか、私は除籍であったと記憶している」とする匿名の投書が、全市議宛に送付されたのだ。
この投書を受け、市議会は田久保氏に説明を求めた。当時の状況について、青木敬博副議長は次のように語る。「彼女は卒業証書と主張する紙と卒業アルバムらしきものを持ってきて、チラッとだけ見せてきた。ほんの2、3秒。その後、本物の証書を確認したが、レイアウトなどが明らかに違った」。この証言は、提出された書類の信憑性に疑問を投げかけるものだった。
伊東市長として公の場に立つ田久保眞紀氏。学歴詐称疑惑と辞任撤回により伊東市政が混乱している。
一転して「辞任撤回」を決断した田久保市長の真意
疑惑が深まる中、田久保氏は7月2日、ついに自身の学歴が「除籍」であったことを認めた。これを受け、7日には一度、辞任する意向を示した。しかし、事態は再び急変する。
7月31日、田久保市長は記者会見を開き、涙ながらに「辞めるのをやめた」ことを表明した。「私に与えられた使命、改めてその使命を、私の全身全霊を傾けて実現してまいりたい」と述べ、続投への強い意欲を示したのだ。この突然の辞任撤回は、伊東市政にさらなる混乱を招いた。
現在、伊東市議会は田久保市長の疑惑を巡って空転し、市役所には4千件以上の抗議が殺到する事態となっている。さらに、市内の建設会社の社長が公職選挙法違反の疑いで告発状を提出し、捜査も開始された。なぜこの期に及んでも、彼女は辞任しないのか――。その背景には、彼女のこれまでの人生と活動が深く関係している。
田久保眞紀氏の歩み:生い立ちから市長就任前まで
田久保眞紀氏は1970年、千葉県船橋市で生まれた。10歳の時に父親を亡くし、不登校気味になった彼女は母親と共に伊東市へ移住。市立北中学に転校した。地元の同級生は、当時の彼女をこう回想する。「3年の1学期に転校してきました。当時は目立たず、地味な印象でした。県立伊東城ケ崎高校(現在は閉校)に進み、郷土研究部に所属していました」。
高校卒業後、東洋大学入学を機に上京し、キャンパスがあった朝霞台のアパートで生活を始めた。大学時代の同級生からは、「下宿先が一緒でした。彼女は学生時代、ロックバンドのボーカルだったそうですが当時、金髪でギターを背負ったバンドマン風の彼氏と同棲していた。けれど2年生になる頃、急に姿を見なくなったのです」という証言がある。この「姿を消した」時期が、後の「除籍」という学歴詐称疑惑に繋がる可能性を示唆している。
あどけない表情の中学時代の田久保眞紀氏。彼女の学生時代は、後に市長としての経歴詐称疑惑へと繋がる転機を含んでいた。
大学除籍後の経歴について、田久保氏は多様な職務を経験したと語っている。全国紙記者の情報によると、「都内で出版社専属のバイク便のライダーや広告代理店の営業職を経験、イベント企画会社を起業したと語っている」。また、ある市議は「イベント業務の中で、『司会をしたり、イベントコンパニオン、レースクイーンと仕事をする機会があった』と本人から聞きました」と証言しており、彼女の多岐にわたる職務経験が伺える。
伊東Uターン後の活動と「メガソーラー計画」反対運動
2010年頃、田久保氏は伊東市へUターンした。伊東市の知人の話では、「お母さんは不動産管理の会社を経営していました。眞紀さんは自宅兼事務所に併設したオーガニックを売りにしたカフェを始めた」という。
その後、彼女が熱心にのめり込んだのが、2016年に持ち上がった伊豆高原メガソーラー計画の反対運動だった。この活動は、彼女が地域の政治・社会問題に深く関わるきっかけとなり、その後の市長選出馬へと繋がっていったと見られている。
参考文献
- 「週刊文春」編集部『週刊文春 2025年8月14日・21日号』