【話の肖像画】元郵政相・八代英太(82)(5)エゴだった「懸命のリハビリ」

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懸命なリハビリを続け、わずかな期間で退院にこぎつけた=昭和48年

懸命なリハビリを続け、わずかな期間で退院にこぎつけた=昭和48年

 <昭和48年6月3日の愛知県刈谷市で起きたステージからの転落事故以降、愛知県内で入院生活をしていたが、8月に自身の希望もあって東京都内の病院に転院した。早期の芸能活動復帰を果たすため、リハビリテーションに明け暮れた>

 他の人がリハビリを1時間やれば、自分は2時間やるつもりで、上半身を含めて徹底的に体を鍛えた。入院生活で気づいたことは、病院内には僕と同じような障害がある人がなんと多いことかということ。みんなで励ましあってやっていました。東京の病院に転院してからはいろいろな人たちがお見舞いに来るようになり、テレビ局のプロデューサーも「社会復帰できれば再び『お昼のワイドショー』で使おう」と言ってくれたので、早く退院しなくてはならないと考えていたんです。

 <医師からは復帰に1、2年はかかるといわれたが、必死のリハビリによりその年の12月には退院できるまでに回復した。退院が決まった後、同じ病院で入院していた男性からの言葉が、今も忘れられない>

 「言いたいことがある」と、僕と同じような障害がある男性の患者さんから言われたので、話を聞きました。彼は「エレベーターのない公営住宅の上の階に家族とともに住んでいる」と説明し、「あんたには帰る家があるけど、俺にはない。俺が帰ると1+1がマイナス2になってしまう。だから、いかにして病院に長くいるかと考えながら闘病しているんだ」と教えてくれました。彼は病院に残るため、ケースワーカーから退院の勧告をされると、尿を濁らせて尿毒症になったり、車いすから転げ落ちて骨折などをしていたようです。

 <8月に転院し、わずかな期間で退院にこぎつけた努力に、病院内では他の患者に対して「八代さんを見習うように」というハッパも掛けられていた>

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