テレビ業界の真実――黒柳徹子が活動70年で浮かび上がった教訓 #昭和98年

テレビ業界の真実――黒柳徹子が活動70年で浮かび上がった教訓 #昭和98年

テレビ業界には、嘘をつくことは許されない――。芸能界のベテラン、黒柳徹子の活動70年での声には、重みが感じられます。黒柳さんがこの間に学んだことを共有することで、私たちもテレビ業界の真実について考えてみましょう。 芸能生活70年、けんかをしたことがない 黒柳さんは言います。「私、芸能界に入ってこのかた、けんかというものをしたことがないんです。ちょっと鈍感なのかしら」と。これまでの活動で、誰かと対立することがなかったというのです。 もちろん、ムカッとくることはあったそうです。黒柳さんは語ります。「ある時、NHKで先輩が『おまえのしゃべり方は変だ』なんて意地悪なことを言ったことがあります。ついカッとなってテレビ局の壁を蹴ったこともあります(笑)。でも、それくらいですよ。本当にけんかは嫌いなんです」と。 1953年2月1日、日本初のテレビ放送が始まった日に、黒柳さんはNHK放送劇団のテレビ女優第一号としてデビューしました。彼女のキャリアは、まさに日本のテレビ界の歴史と重なるものだと言えます。 当時、黒柳さんは他の劇団員とは異なるスピーディな話し方をしていました。彼女は語ります。「他の人はゆっくりと丁寧な話し方をするのに対して、私はチャラチャラと早口で話していたんです。その早口さに、先輩たちは顔をマイクにぶつけるくらい驚いたそうです(笑)」。 彼女の個性は、周りの人々の努力を超えて存在感を放ち続けました。しかし、黒柳さんは自分自身を変えることはありませんでした。 黒柳さんは語ります。「早口が直らなかったから、周りの人々はあきらめたんでしょうね(笑)。母は私が子供の頃から、『他の人と自分を比べないこと』と言っていました。おかげで、他人になりすましたり、他人の成功を羨んだりすることは、私の人生で一度もありませんでした」と。 ただし、黒柳さんには孤独感も存在しました。幼少時代、落ち着きがなく、個性的な行動が目立ち、小学校を1年生で退学させられたこともありました。しかし、彼女の個性を受け入れた人々が現れました。トモエ学園の校長である小林宗作氏は、「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」と彼女を受け入れました。また、NHK放送劇団の時、劇作家の飯沢匡氏は、「あなたは、そのままでいてください」と彼女の才能を見出しました。 黒柳さんは語ります。「私の人生は、理解者との出会いがあって成り立っています。本当にラッキーでした」と。 テレビ業界で成功し続ける黒柳徹子さんのメッセージには、深い教訓が込められています。テレビ業界で生き残り、自分自身を保ち続けるには、嘘をつかず、個性を大切にすることが大切なのかもしれません。 (文中敬称略/取材・文:内田正樹/撮影:下村一喜/日本ニュース24時間オリジナル 特集編集部) ソースリンク: 日本ニュース24時間

いまの漫画は下手? 元「週刊少年ジャンプ」編集者が語る漫画の描き方とビジネス #昭和98年

いまの漫画は下手? 元「週刊少年ジャンプ」編集者が語る漫画の描き方とビジネス #昭和98年

コミック市場は過去最大の6770億円、アニメ産業市場も2兆7422億円と好調です。そんな中、『DRAGON BALL』や『Dr.スランプ』を生み出した漫画やアニメビジネスの立役者で、元「週刊少年ジャンプ」の名物編集者、鳥嶋和彦氏が漫画の作り方についての本を出版しました。漫画の描き方からビジネスのあり方まで、丁寧に解説された同書は、漫画の理屈が誰にでも理解できる内容となっています。鳥嶋氏に、拡大する漫画ビジネスについての考えを尋ねました。 片っ端から読んで気づいた「面白い漫画」とは? 196ページ、大判(B5判)サイズの本を開くと、次々と展開される「漫画の作り方」を丁寧に解説した内容が広がります。キャラクターの魅力、吹き出しの重要性、コマ割りのあり方などについて紹介されています。過去にも漫画の描き方の本は存在しましたが、本書では「なぜ必要なのか」という理屈が分かりやすく示されています。 ──いまこの漫画術を書こうとしたのはなぜですか。 「いまの漫画がほとんど下手だからです。いまデジタルも含め、いろんな漫画がありますが、見せ方がみんな下手です。漫画は誰が読んでも分かるものじゃないとだめです。でも、そうなっていないんです。このままじゃまずいなと思いました。人気の漫画も、見せ方が下手で損をしています」 ──何がどう下手なんですか。 「たとえば、コマ割りやアングルです。これがうまくないと、パッと見たときに、どこをどう見ていいか、目が迷うわけです。この『DRAGON BALL』の見開きを見てください。最初のロングカットで、いつ、どこで、誰が、何をやっているかが分かります。次の顔のアップでキャラクターの表情があり、ミドルカットでアクションがあります。見開きの中で、ちゃんと考えて構成されているから、誰が見ても分かるんです。こういうセオリーがいまの漫画はできていないんです」 鳥嶋和彦さんは漫画の世界では広く知られる編集者です。『Dr.スランプ』(1980年)の中で、悪役キャラクター「Dr.マシリト」としても描かれたことがあります。1976年に集英社に入社し、創刊8年目の「週刊少年ジャンプ」編集部に配属されましたが、漫画をまったく知らなかったそうです。そこでグループ会社・小学館の資料室でたくさんの漫画を読み込みました。その中で速いスピードで読める漫画こそが面白い漫画だと気づいたと言います。一番面白かったのは、ちばてつや氏による剣道の漫画『おれは鉄兵』だったそうです。 ──どこが『鉄兵』のよさだったのですか。 「たとえば、剣道の場面。引いたカットで対峙している2人がいる。どの位置に、どれだけの距離かが分かるように描かれています。すると、“間合い”が読めるんです。剣道は間合いをどう測り、どう動くと打たれるかが本質です。ちばさんはそれを描いていました。読者は過不足なく理解できます。なぜこのコマなのか、このアングルなのか、なぜこのセリフなのか。そういう文法がしっかりあるんです。資料室で読んでいくと、そういう基本ができている漫画はやはり面白いんです。それが分かったので、自分が担当する新人漫画家との打ち合わせで、それを伝え、そういうふうに作ってもらうようにしました」 鳥嶋和彦氏の本では、漫画の作り方やビジネスのあり方について、多くの示唆とアイデアが詰まっています。いまの漫画がもっと面白くなるために、これらのヒントを参考にしてみるのも良いかもしれません。 記事のソースリンク: https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7b1a3fe1a215527815fc58c8ad2a82ddd425f5

やっぱり幸せのために生きてるんだ、人間は――どん底も闘病も乗り越えた加山雄三86歳、波瀾万丈の人生 #昭和98年

やっぱり幸せのために生きてるんだ、人間は――どん底も闘病も乗り越えた加山雄三86歳、波瀾万丈の人生 #昭和98年

(撮影:倭田宏樹) 2022年末、コンサート活動に終止符を打った加山雄三(86)。彼の活動は60年以上にわたり、「永遠の若大将」として愛されてきました。現在、彼の地元・茅ヶ崎では彼の銅像が建てられる予定です。1960年代に一世を風靡した彼は、時には多額の借金を抱え、事故で再起不能の危機に陥り、近年では脳梗塞や小脳出血でリハビリ生活を送ってきました。しかし、彼は言います。「一生懸命生きていると、いいほうに向かうんだ」と。では、彼はどのようにして人生の荒波を乗り越えてきたのでしょうか。 ラストステージの後も「まだ先がある」 (撮影:倭田宏樹) 2022年の大晦日、加山雄三はNHK紅白歌合戦に出演し、「海 その愛」(1976)を歌いました。彼は当時85歳であり、番組史上最高齢の歌唱者となりました。このステージが彼のラストステージでした。 彼は言います。「始まりがあれば終わりがある。やっぱり自分の限界みたいなのがあるんだろうね。下手な歌を聴いてもらうより、きちっと歌えるうちにやめたほうがいいやって。でも最後なんていってもね、自分で最後だとは思わないから。必ずまだ先があるんだ。音楽を愛するということは永遠に変わらない」。 近年、加山雄三は病と闘いました。2019年に脳梗塞を起こし、療養しながらも、翌年には小脳出血を発症しました。後遺症は残りましたが、言語などのリハビリに取り組み、2021年の冬にはステージに復帰することができました。 彼は語ります。「脳梗塞も小脳出血も、いち早くカミさんが病院に連れていってくれた。脳梗塞の時、俺は異変を感じていたけど、病院は明日でいいかなってくらいに思ってたんだ。でも、次男の車ですぐに病院に向かって。それがよかったらしいんだよ。翌日だったら、よいよいになっていたと。今こうしてしゃべっているのはカミさんのおかげ。小脳出血の後、言語のリハビリは2年近く継続したかな。ちゃんと声が出て、歌えるよと思った時は、言葉に表せないくらいうれしかったね」。 加山雄三の故郷である茅ヶ崎には、まもなく彼の銅像が建てられます。 彼は言います。「銅像って、死んだ人間がなるものだと思ってたんだよ。西郷隆盛とかさ。でも、そうじゃないんだと。何色がいいか聞かれたから、金色って言っちゃった。加山雄三じゃない、加山金像だよ(笑)。次から次へといろんな苦労があったけど、銅像ができるなんて言われたらもう死ねないな」。 もともとの記事リンク: https://news.yahoo.co.jp/articles/9a80523befd9525c147fb61e39047ac9d6e1f40e 日本ニュース24時間の魅力的な記事をご紹介しました。もっと詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください。

俺らが大切にしているのは「今」――35周年を迎えたJUN SKY WALKER(S)が語る「昔のことはグチグチ言わない」 #昭和98年

俺らが大切にしているのは「今」――35周年を迎えたJUN SKY WALKER(S)が語る「昔のことはグチグチ言わない」 #昭和98年

[ad_1] 撮影:伊藤圭 昭和の終わりから平成の初めにかけて、若者を熱狂させた「バンドブーム」。当時ブームを牽引したJUN SKY WALKER(S)は、解散、再結成、メンバーの交代を経て、今なお現役で活動を続ける。出会いは中学時代で、友人としても40年以上の付き合い。「もちろんいろいろあったけど、根に持たないから、俺たち。だから長続きしたと思う」。原宿のホコ天に立っていた1980年代を振り返りながら、ジュンスカを続ける意味をメンバーの3人が語った。(取材・文:山野井春絵/撮影:伊藤圭/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) ホコ天はフェスの走りだった 撮影:伊藤圭 今も昔も若者文化の中心地、原宿。かつて、代々木公園から表参道までの通りは、毎週日曜日に「ホコ天(歩行者天国)」として多くの若者でにぎわっていた。 今年、メジャーデビュー35周年を迎えたJUN SKY WALKER(S)―ジュンスカ―も、ホコ天から大きく羽ばたいたバンドの一つ。ホコ天に立っていたのは、80年代半ば、バンドブームの黎明期だ。当時ライブハウスでの集客がいま一つだった彼らが、いわば宣伝のためにはじめた路上ライブだった。 宮田和弥 ジュンスカが初めてホコ天に立ったとき、時代はまだ昭和。ボーカルの宮田和弥(57)が当時を振り返る。 「あのころはまだ『イカ天』(TBS系の深夜番組『いかすバンド天国』)以前です。バンドも少なくて、竹の子族がまだちらほら。『ロックンローラー族』っていうのがいたんですよ。ホコ天が終わるころになると、リーゼントの怖いお兄さんたちが俺らのところにごみ袋を持ってやってきて、『ちゃんとこの周りのごみを捨てて帰りなさいよ』って。普段ヤンチャやっている人が意外とそういうところはきちんとしていたり、あったかい感じが昭和っぽかったな。昭和は、コミュニケーションにも肌感やアナログ感みたいな温度感があったし、だから昭和の音楽が響く若い人たちもいるんでしょうね」 小林雅之 ドラムスの小林雅之(58)は意外な人からも励まされたという。 「昭和は、ホコ天で警官が注意しに来るけど、黙認してくれた時代でしたね。ホコ天は面白かったよね。工事用の発電機を貸してくれた電気屋のおじさんから『頑張れよ』って励まされたり。盛り上がるほど、カセットテープがたくさん売れた。そこからライブハウスにもお客さんが増えて」 [ad_2] …