現代韓国史を描いた大河小説「太白山脈」。700万部が売れたベストセラーであり、同名で映画化され大ヒットした。これは小説家チョ・ジョンネ(趙廷来)氏の作品だ。韓国人の現代史観に与えた影響という点では、日本の司馬遼太郎氏が日本人の日本近代史観に与えた影響に匹敵するものだ。
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趙氏の作品に小説「アリラン」もある。この作品は350万部を売り上げた。「太白山脈」が北朝鮮に対する韓国人の視線に影響したならば、「アリラン」は日本に対する韓国人の視線に影響を与えてきた。韓国の”反日の実態”を分析し、日韓で話題になっている経済学者イ・ヨンフン(李栄薫)元ソウル大学教授の著書「反日種族主義」は、趙氏の小説「アリラン」に登場する日本人”虐殺者”の真偽に関して考察し、「狂気に満ちている増悪の歴史小説」として痛烈に批判している。
小説「アリラン」の始まりには、日本人警察が朝鮮人農民を「朝鮮警察令」によって即決銃殺する場面がある。そして、このような即決処刑が4,000件に至ると説明されている。李元教授はそのようなことはあり得なく、またそのような法令も存在しなかったと言う。
また、趙氏は「アリラン」で”売国奴・親日派”の代表格と言われている大韓帝国の内閣総理大臣イ・ワンヨン(李完用)により朝鮮半島の穀倉地帯「金堤萬頃平野」が日本人に取り上げられたと描写している。しかし、李元教授は逆に19世紀まではヨシだらけの荒野だったこの平野地帯を日本の半島統治が始まった1910年以降、半島に移住した日本人が自ら開発し、穀倉地帯に変貌させたと説明する。
こうなると趙氏と李元教授の関係はまさに「犬猿の仲」。あくまでも”小説”である分、内容の真偽は関係ないかもしれないが、この”歴史小説”を大勢の韓国人が”歴史”として認識している。大勢の青年が徹夜して本を読みながら”民族の受難”を思い浮かべ、涙を流しながら読んでいた。
そして今、韓国の政権をとった勢力は中年になったその青年たちに支持され、その民族主義は「反日」の底辺になっていることも事実である。趙氏の”影響力”は色々な意味で、今の政権になってから更に大きくなりつつある。
その「アリラン」と「太白山脈」の著者である趙氏。彼の文壇デビュー50周年の記者懇談会での発言が波紋を呼んでいる。趙氏は「日本留学に行ってきたら親日派になる」と言いつつ、150万人はいる韓国内の”親日派”の断罪・懲罰の必要性を訴えた。
趙氏の見解や”イデオロギー”は「太白山脈」や「アリラン」と言った和訳された作品を読めば理解出来る筈なので、深く言及しないが、ここで問題提起したいのは「日本留学に行ってきたら親日派になる」という発言の背景・思想的な基盤についてだ。
このニュース記事に対する読者らのコメントに「もう少し話を飛躍すれば、満州(国外)に行って独立運動せず、日帝治下で生活したすべての朝鮮人をみんな親日派とすることもできる」というものがあった。
これを見ると、中国で1919年から「大韓民国臨時政府」の活動を行い、朝鮮半島が日本の統治から解放された1945年の直後、帰国して活動を始めようとしていたキム・グ(金九)派のある幹部の発言を思い出す。彼は、その後に韓国民主党に至る国内の民族主義指導者らとの会合で次のような発言をした。
「国外で独立運動に献身した者の以外は、就中、日帝治下の朝鮮半島で生きていた者なんぞは、全員親日派だ」と国内諸派を罵ったものだ。
正直、国内に基盤が無い金九派としては、国内諸派と協力関係を築く上でマウンティングしていただけかもしれないのだが、この発言の背景には「伯夷・叔斉」の故事の如く、「社稷」と言う感覚があったのではないか。
「社稷」感覚とは、簡潔にまとめると、ある王の統治下の領域において生産された食糧は王の徳の反映であり、それを食して生業を営んで行くという事は、その王の臣民として生きていくというものだ。
従って、殷王朝の属国の王族であった伯夷・叔斉は、周王朝成立後、周王朝の臣民にはなるまいと絶食して餓死し、数千年が過ぎた今でも「清廉潔白」の象徴となっている。
この感覚がある韓国人は、日帝治下の朝鮮で生きていた人々も、日本に就学・就業して生きる人々も、等しく「親日派=売国奴」に感じられてしまうのではないのか。
ついでに1950年の朝鮮戦争を描いた韓国映画「ブラザーフッド」を見た方なら、同族にも拘らず、北は南の住民に、また南は北の住民に、そして北の占領下に取り残された南の住民に対して、「裏切り者」として虐殺を平気で犯していた、史実に基づくシーンを覚えていないだろうか?
先日の趙氏の発言を耳にして、韓国人には根深い「社稷」感覚と、それに基づく”他者評価”、”他者への視線”が根深いものだなと、感じてしまう。その趙氏が熱く支持し、韓国を”一度も経験したことのない国”にしているムン・ジェイン(文在寅)大統領の娘さんも日本の「国士館大学」で留学していたことはまたも奇妙な皮肉でもある。