1997年11月25日付朝刊
山一時代の永野さん
「山一は自主廃業することになった」
【写真】誰よりもギラついていた頃の永野さん
1997年11月22日、土曜日の早朝。山一証券千葉支店の副支店長だった永野修身(おさみ)さん(63)=当時39歳=宅の電話が鳴り、本社の上司がそう告げた。
自主廃業が公表され、資産の引き出しを求める顧客の列(1997年11月25日、東京・池袋支店前で)
「自主廃業ってなんだ? 全然わからない」。部下を引き連れたはしご酒のせいで、頭が回らない。とりあえずバーボンウイスキー「I・W・ハーパー」の封を切った。混乱したままグラスに注ぎ、一杯、また一杯と飲み干していく。気づけばボトルは空になっていた。
マーキュリー社を設立後、山一証券の元社員を次々と金融業界にカムバックさせた永野さん(4月14日、東京都港区赤坂で)=今利幸撮影
創業100年を誇り、4大証券の一角を担った名門の破綻が記者会見で発表されたのは、その2日後。巨額の簿外債務が明るみに出た。永野さんを含め、約7500人いた社員は全員、職を失うことになった。
山一の「人」に舞台仲介…「地道・誠実」のDNA 金融界に残す
山一証券千葉支店の副支店長だった永野修身さん(63)=当時39歳=は、1997年11月24日、あの記者会見をテレビで見て、ぼう然とした。
「社員は悪くありませんから!」。自主廃業を発表し、何度も頭を下げる野沢正平社長(84)=当時59歳=は、新宿駅西口支店で営業マンをしていた頃の支店長だった。
営業一筋の野沢さんは、むやみに大きな取引を狙うのではなく、同じ銘柄をコツコツと買い足す資産運用「ドルコスト平均法」を好み、顧客に勧めていた。
支店の営業ノルマの締め切り前、もうどうしたって目標額に到達できない状況であっても、「あきらめないで、最後までやろうじゃないか」と部下を鼓舞し、地道に努力を続ける人でもあった。
その野沢さんが、世間の批判を一身に浴びて謝罪している。3か月前に社長に就いたばかりで不正は知らなかったが、記者会見では、自分たち社員をかばって涙を流した。
「会社は手遅れでも、せめてひたむきに頑張ってきた社員のプライドは守りたい。そんな思いが伝わってきた」
翌朝、千葉支店の前には資産の引き出しに顧客が殺到した。「どうなっているんだ!」と怒号が飛ぶ中、ふと気づけば、ライバル会社の営業マンが「うちなら大丈夫」と顧客の取り込みにかかっていた。