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太平洋戦争を経験し、恩給を受給する元兵士の平均年齢が昨年、100歳を超えた。戦争の不条理を肌身で知る人たちは、その記憶を背負い、戦後78年をどう生き抜いたのか。今なお戦火が世界を揺さぶる中、重い証言に耳を傾けた。
【動画】平川さんの証言
敵兵を手にかけた記憶にさいなまれてきた平川さん。右手の人さし指は砲弾の爆発で失った(7月下旬、長崎県島原市で)=浦上太介撮影
目を閉じると、まぶたに浮かぶのは満州(現中国東北部)と中国の国境近くで起きた交戦時の光景だ。自らが手にかけた2人の敵兵は、まだ若かった。「あんたを殺さんと、俺が殺される。上の命令だから勘弁してくれ。すまんね……」
戦後、長崎県島原市の平川重信さん(98)は毎朝夕、自宅の仏壇に手を合わせてきた。2人の敵兵とその親を思い、自然と言葉が口をつく。心に深く刻まれた傷は、1世紀近く人生を歩んだ今も消えることはない。
1924年、同県布津村(現・南島原市)の農家に長男として生まれた。16歳の時、南満州鉄道に勤める親類を頼って満州・撫順へ。機関士見習いとして働いたが、戦局が悪化し、20歳で陸軍に入隊。銃剣で敵を突く訓練に明け暮れた。
終戦間際、民家への襲撃から住民を守る部隊にいた時のことだ。攻め込んできた敵兵が小銃に弾を詰めるのが見えた。気づかれないようほふく前進で進む。1・5メートルまで近づいた時、不意に銃口が向けられた。
「先に殺さんと殺される」。銃剣を突き出すと、相手の血が降りかかった。隣には小銃で日本兵を狙う別の敵兵がいた。背後から銃剣で突いた。無我夢中だった。
交戦の中で砲弾が爆発し、自身の右手人さし指が吹き飛んだ。上官に「痛いか」と問われ、「痛い」と答えると、「このくらいで痛くて戦争ができるか」と顔が腫れるまで殴られた。
数か月後、玉音放送が流れた。上官はたった一言、「戦争終わり!」と言った。「神の国だから絶対負けないと言われてきたのに。何のために戦ったのか」。命を奪った敵兵のことがよぎり、虚無感が押し寄せた。
攻め入ってきた旧ソ連軍に、列車でシベリアに連行された。マイナス約30度。極寒の地で、日本兵約10人で肩を抱き合って寝た。翌朝目を覚ますと、目の前の仲間は冷たくなっていた。遺体は山奥の溝に捨てられたと聞いた。
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