寺の住職がびっくりした「数百年後の恩返し」 床が抜けそうな貧乏寺の改築費用を寄付したのは、まさかの「潜伏キリシタン」の子孫だった 寛容さが現代社会に投げかけるもの

長崎市樫山町の天福寺

東シナ海を望む長崎市樫山地区にある小高い山「赤岳」。その麓にある天福寺に1978年、少し離れた地区に住む人々が訪れました。天福寺は貧しく、本堂の床は抜け落ちそうで、天井から雪が舞い込む有様でした。お布施の収入は月6万円ほどしかなく、檀家に改築費用を募っている最中でした。

訪れた住人たちは約400万円もの寄付を申し出ました。ただ、仏教徒ではないというのです。

「私たちは潜伏キリシタンの子孫です。お寺のおかげで信仰と命をつなぐことができました。少しでも恩返しがしたい」とのこと。

1688年に建立された天福寺は曹洞宗のお寺です。にもかかわらず、キリスト教が禁止され、厳しい取り締まりがあった江戸時代に、危険を冒して潜伏キリシタンを檀家として受け入れ、積極的にかくまっていた歴史があります。

「数百年後の恩返し」はあまりに突然でした。申し出を受けた住職は驚くと同時に、ある仏語が浮かび、恐ろしくもなったというのです。(共同通信=下江祐成)

「もし弾圧する側に回っていたら…」

当時対応したのは、前住職の塩屋秀見さん(70)。塩屋さんによると、赤岳は江戸時代、ローマにつながる御利益がある「聖山」として、潜伏キリシタンたちがひそかにあがめた場所だったそうです。

寄付を申し出たカトリック信者たちは30人ほどでした。寄付の理由をこう語りました。「天福寺に何かあったときは助けるようにと、いろり端で代々、伝えられてきたから」と。

そして、信仰する教会への不義理と捉えられるのを嫌がったのか、塩屋さんに「自分たちの名前を表に出さないで」と頼んだというのです。

塩屋さんは複雑な気持ちになったと言います。「うれしかった半面、『三時業』という仏語が浮かんで、恐ろしくなった」と。

三時業とは、善悪の業の報いを、本人が受けずに死んだとしても、生まれ変わった後に報いを受けるという教えです。

数百年前にキリシタンを守った寺の先人たちの善行に対して、本当に世代を超えて報いが来たと実感したそうです。反対に、もし天福寺が当時、キリシタンを弾圧する側に立っていたとしたら、今ごろどうなっていたのだろうかとも思ったと言います。

曹洞宗の寺に、まさかの「マリア像」

天福寺とキリシタンの関係は、それだけではありません。

江戸時代、キリシタンを取り締まっていたのは長崎奉行所でしたが、そこからわずか2㌔ほどの浦上地区にもキリスト教徒たちは多くいました。1856年ごろ、この地区の信徒たちがキリシタンと疑われる嫌疑が浮上しました。当時「崩れ」と呼ばれた事件だったのです。信仰対象が没収されることを危惧した浦上の信徒たちは、険しい峠を夜中にひそかに越え、マリア観音像を天福寺に託したと伝えられています。その像は、今も本尊の隣に安置されています。

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