第102代内閣総理大臣となった石破茂氏はどんな人なのか。小・中・高校生向け教室「happier kids program」を主宰する長谷部京子さんは2018年、教室に通う子どもたちと石破氏をインタビューした。その内容をまとめた『僕たちはまだ、総理大臣のことを何も知らない。』(Gakken)より、一部を紹介する――。
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■まわりの人が頭を下げる不思議な仕事
私は幼稚園、小学校、中学校と鳥取県で育ちました。自分の父親が鳥取県知事であるという、非常に特異な環境で育ったので、そのプレッシャーは大きかったです。間取りでいうと20LDKみたいな、どでかい知事公邸に住んでしました。庭には川が流れ、山があり、テニスコートもゴルフの練習場もある、そういうところでしたね。
子どものころ、学校でお父さんについての作文を書けと言われると、何をやっているかわからないので、すごく困りました。農家でもないし、商店でもないし、会社員でもない。ほとんど家にいることもありません。
子どもには、知事がどんなことをしているのか、よくわかりませんでした。「なんだか知らないけど、まわりの人がみんな頭を下げる不思議な仕事だ」と思っていました。
■「知事の子どもだから、勉強ができて当然」
私の通った学校は、鳥取大学附属小学校・附属中学校という、比較的勉強ができる子どもたちが集まる学校だったんです。私は知事の子どもですから、勉強ができなくてはいけないと思っていました。母親が非常に教育熱心な人で、すごくプレッシャーがありました。
小学校5、6年生の時は、毎月、国語、算数、理科、社会のテストがありました。1クラス36人全員、1番は誰、2番は誰と、成績が発表されるんです。これが重圧でしたね。常に1番でいられるはずもなく、4番や5番に落ちると母親からひどく叱られました。
■「地元進学はまずい」と慶應義塾高へ
中学校に入るころは、大学紛争といって、大学生たちが活発に政治活動をしている時代だったんです。日米安全保障条約反対を掲げる、非常に過激な学生運動があった時代です。中学生でも、政治への関心が高い子どもたちは、権力に対して反対する雰囲気がありました。
知事は権力の象徴みたいなものですから、知事の子どもとしては、非常に居心地が悪かったですね。知事の息子というプレッシャーを感じつつ、このままの環境にいていいのかなという思いがありました。
比較的素直な子でしたから、勉強はきちんとしていましたが、中学3年生の時に、「このまま地元の高校に進学するのはまずいかもしれない」と私自身も思いました。母親も、このまま地元の県立高校で厳しい環境にいたら、私が不良になるんじゃないかと思ったんでしょうね。だから、高校は、東京の慶應義塾高等学校に行ったんです。
■立派な政治家である父を超えるのは難しい
子どものころは、学校の先生になりたかったんです。
人に教えることが楽しいと思ったし、学校の先生が主人公のテレビドラマや漫画の影響もありました。私の母親は、東京女子大を出て、結婚するまで国語の先生をしていました。父親が戦争に行っていたころは、再び学校の先生をして生計を立てていました。年の離れた2人の姉もそれぞれ英語と歴史の先生で、教員の多い環境で育ったんです。
そうしたまわりの環境もあって学校の先生になりたいと思っていましたが、そのころの多くの男の子たちと同じように、電車の運転手やパイロットになりたいとも思っていました。
中学生のころは、父親を見ていて、「政治家というのは、あまりいい仕事ではない」と思っていました。プライベートの時間はほとんどないし、もちろん土曜日も日曜日もない。そんなにお金が儲かるわけでもないし、あまり割のいい仕事ではないと感じたんです。
それに、子どもの私がこんなことを言うのは変ですが、私の父親は非常に立派な政治家でしたから、とても父親を超えることはできないと思ったんです。政治家は立派な仕事だ、価値のある仕事だとは思いましたが、自分がふさわしいとは思わなかったですね。あまりに立派な父親をもつと、超えるのが難しいと思ってしまうものなんですね。