【光る君へ】彰子は87歳まで生きた 道長の周囲で長生きした人に見つかる共通点


平安時代の平均寿命は40歳前後

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 その道長は万寿4年(1027)12月4日、62歳で死去した。糖尿病が原因で敗血症になり、最後は多臓器不全に陥ったと考えられている。じつは、その何年も前から体はボロボロだったようで、寛仁2年(1018)10月、かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という歌を詠んだころには、道長は目がよく見えていなかった。藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』にも、道長が実資に「近くはつまり、汝(実資)の顔も特に見えない」(倉本一宏訳)と嘆いた旨が記されている。

 そうはいっても、この時代に還暦を迎えることができたのだから、まずまずの長生きだった。

90歳まで生きた道長の正妻、倫子

 寛弘5年(1008)には、正二位の道長を超えて従二位に叙され、外孫の敦成親王が後一条天皇として即位した長和5年(1016)には、太皇太后、皇太后、皇后の三后に準じる准三后になった。道長の死去後も、彰子を除く娘3人に先立たれながら生きながらえ、長暦3年(1039)には76歳で出家。亡くなったのは天喜元年(1053)、孫であり曾孫である後冷泉天皇(孫の後朱雀天皇と四女の嬉子のあいだに生まれたため)の代で、享年は90だった。

 次妻で4男2女を産んだ源明子(瀧内公美)も長命だった。倫子が宇多天皇の孫、源雅信(益岡徹)の娘だったのに対し、1歳年下の明子は醍醐天皇の皇子、源高明の娘。血筋だけなら明子のほうが天皇に近かった。道長の日記『御堂関白記』には、倫子にくらべると明子への言及が少なく、道長の死後はほとんど記録がないが、永承4年(1049)に85歳で死去したことはわかっている。

 また、長男(道長の次男)の頼宗(上村海成)は73歳、三男(道長の四男)の能信は71歳、次女の尊子(道長の五女)は85歳まで生きているので、長寿の遺伝子をもっていたのかもしれない。



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