幻の高原列車、草軽電鉄:北軽井沢の記憶を辿る旅

軽井沢と草津、二つの名湯を結んでいた幻の鉄道、草軽電鉄。1962年の廃線から60年以上経った今、その痕跡を訪ね、北軽井沢の歴史を紐解いてみましょう。浅間山の麓を縫うように走っていた小さな列車は、当時の人々の生活にどのような影響を与えたのでしょうか。

草軽電鉄と北軽井沢の繁栄

草津温泉だけでなく、浅間山麓の高原地帯も草軽電鉄の恩恵を受け、発展を遂げました。その代表的な例が北軽井沢です。1918年に地蔵川駅として開業し、1927年に北軽井沢駅へと改称。法政大学村から寄贈されたという駅舎は、今も北軽井沢の中心に佇んでいます。駅舎の欄間(らんま)に刻まれた「H」の文字は、法政大学を象徴するシンボルです。

北軽井沢駅舎北軽井沢駅舎

草軽電鉄の開通により、北軽井沢は高原の別荘地・避暑地として発展。静寂を求める文化人たちも多く訪れ、大江健三郎や谷川俊太郎も夏には北軽井沢で執筆活動を行っていたと言われています。 当時の様子を想像してみると、軽井沢の喧騒を離れ、静かな環境で創作活動に没頭する文豪たちの姿が目に浮かびます。

北軽井沢の街並みと草軽電鉄の記憶

北軽井沢の街並みは、碁盤の目状に区画されています。しかし、中心部にある北軽井沢駅周辺だけは放射状に道路が伸びています。これは、草軽電鉄が地域発展に大きく貢献した証と言えるでしょう。鉄道は姿を消しましたが、地域住民の心の中には、今も草軽電鉄への温かい思いが息づいているのではないでしょうか。

法政大学村と北軽井沢の変遷

北軽井沢一帯は、明治時代に綿羊や軍馬の生産地として開拓されました。昭和初期には、法政大学学長の松室致が所有地を文化人向けの別荘地「法政大学村」として開発。このことが、北軽井沢の文化的な発展を後押ししました。 鉄道の歴史と文化人の交流が、北軽井沢の独特の雰囲気を醸し出していると言えるでしょう。例えば、地元の郷土史研究家、山田一郎氏(仮名)は、「草軽電鉄と法政大学村の存在が、北軽井沢の文化的な土壌を育んだと言えるでしょう」と語っています。

今に残る草軽電鉄の面影

北軽井沢を散策すると、今もなお草軽電鉄の面影を感じることができます。線路跡はほとんど消滅してしまいましたが、地元の人々の記憶の中には、鮮明に列車が走っていた頃の風景が残っています。 まるでタイムスリップしたかのように、当時の賑わいを想像しながら歩くのも、旅の醍醐味の一つと言えるでしょう。

山の中に埋もれた草軽電鉄山の中に埋もれた草軽電鉄

草軽電鉄は、単なる交通手段ではなく、地域の人々の生活や文化を支える重要な存在でした。 その歴史に触れることで、北軽井沢の魅力をより深く理解することができるでしょう。