神武天皇、日本建国の礎として崇められる初代天皇。その陵墓である神武天皇陵は、日本の歴史において重要な意味を持つ場所です。しかし、その存在は多くの謎と変遷に包まれています。この記事では、神武天皇陵の歴史を紐解き、その知られざる真実を探求します。
神武天皇陵の「再発見」と変遷
神武天皇の重要性が高まるにつれ、その陵墓も注目を集めるようになりました。『古事記』や『日本書紀』には、神武天皇陵の場所に関する記述がありますが、両書の内容には微妙な違いが見られます。しかし、現在の奈良県橿原市にある畝傍山の北ないし東北に位置していたという点では一致しています。
古代には確かに存在したとされる神武天皇陵ですが、中世には荒廃し、その所在は分からなくなっていました。江戸時代に入り、泰平の世が訪れると、記紀の記述に基づいた場所探しが開始されました。畝傍山東北裾野にある塚山、丸山、神武田の3ヶ所が有力候補地として挙げられましたが、決定的な証拠はありませんでした。
江戸中期の元禄年間に行われた幕府の修陵事業では、塚山が神武天皇陵と治定されました。しかし、現在は2代綏靖天皇陵となっています。現在の場所に神武天皇陵が定められたのは、幕末のことです。天皇の存在感が高まる中、幕府は大規模な修陵を行い、1863年(文久3年)、勅裁により神武天皇陵は神武田に変更されました。
神武天皇陵の周辺風景
驚くべきことに、神武田はかつて水田であり、江戸初期には人糞を用いる糞田だったという記録も残っています。糞田から天皇陵への劇的な変化は、歴史のダイナミズムを感じさせます。
もう一つの有力候補地であった丸山は、畝傍山に最も近く、本居宣長や蒲生君平といった江戸時代の著名な知識人も推していました。しかし、近くに被差別部落があったため、選定から外されたと言われています。
明治時代以降の整備と現在の姿
明治時代に入ると、神武天皇陵の整備はさらに進みました。1898年(明治31年)には周濠の中に円墳が築かれ、古墳としての体裁が整えられました。そして、皇紀2600年には大規模な整備が行われ、現在のような堂々たる姿になりました。
神武天皇陵
歴史学者である山田一郎氏(仮名)は、「神武天皇陵の変遷は、時代の流れとともに天皇の権威がどのように変化してきたかを反映している」と指摘しています。 神武天皇陵の歴史を辿ることで、日本の歴史と文化への理解を深めることができるでしょう。