【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(4)西郷と勝 慶喜助命は暗黙の了解 

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勝海舟と西郷隆盛が会談したと伝えられる池上本門寺・松涛園=東京都大田区(関厚夫撮影)
勝海舟と西郷隆盛が会談したと伝えられる池上本門寺・松涛園=東京都大田区(関厚夫撮影)
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 700年以上の由緒がある日蓮宗大本山・池上本門寺(東京都大田区)。慶応4(後の明治元=1868)年3月13・14(旧暦)の両日に行われた新政府軍参謀、西郷隆盛と旧幕府軍事取扱、勝海舟との会談が「江戸城攻撃の延期(結果的に中止)」という画期を生み、西郷が新政府首脳との協議のためいったん西に向かった後、この名刹(めいさつ)が、西郷の留守を預かる新政府軍幹部と勝との間で「無血開城」の実務を協議する舞台となった。

 その本門寺では9月初旬の数日間、名園として知られる松涛(しょうとう)園が一般公開されている。江戸開城の直前のことだろうか、慶応4年4月、勝は西郷ともこの松涛園の一角で会談した-と本門寺には伝えられている。

始まりは鳥羽伏見

 これまで、勝・西郷会談という「点」を中心に話を進めてきた。だが江戸無血開城は少なくとも、会談から実際の開城にいたるまでの約1カ月間、あるいは旧幕府軍が一敗地にまみれた年初の鳥羽伏見の戦いから上野戦争(彰義隊鎮圧)に至るまでの5カ月間におよぶ歴史プロセス-「線」で考える必要がある。

 「軍艦・開陽丸が品川に投錨した。払暁に海軍所に行くと、(前将軍の徳川慶喜が)江戸ご帰還とのこと。初めて鳥羽伏見の戦いの始末を聞く。会津藩主の松平容保侯や桑名藩主の松平定敬侯もお供の中にいた。詳しい話を問おうにもみなただ青い顔で互いに目配せするばかり。決して口を開こうとしない。板倉勝静(かつきよ)閣老(老中)からそのあらましを聞くことができた。これより日々空議と激論でただ時間を空しくするのみ。意見まとまることなし」

 1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは6日、総崩れとなった旧幕府軍が大坂に退却し、終結した。この日夜、慶喜は松平容保らを引き連れて大坂城をひそかに脱出していた。前述の引用は「戦勝」の知らせを待っていたところ、「上様、海路江戸到着」という意外な報を受けた勝の「慶応四戊辰(ぼしん)日記」に描かれた「1月11日の記」である。

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