許永中氏。その名は「闇社会の帝王」「戦後最大の黒幕」として、イトマン事件や石橋産業事件などで語られることが多いでしょう。しかし、彼の壮絶な人生の原点はどこにあったのでしょうか?今回は宝島社刊『許 永中独占インタビュー「血と闇と私」』を基に、大阪・中津の在日韓国人地区で生まれ育った少年時代、特に高校時代のエピソードに焦点を当て、知られざる一面を紐解いていきます。
在日韓国人としてのカミングアウト:高校時代の葛藤
大阪府立東淀川高校に入学した許氏。最初のホームルームでの自己紹介で、彼はクラスメートの前で衝撃的な告白をします。「僕は、韓国人です」。静まり返る教室。出身中学や趣味、得意科目といったありきたりな自己紹介をする中で、あえて自身の出自を明かしたのです。
同じ地域で育った同級生もいる中、隠すことは不可能だと考えた許氏。陰口を叩かれるくらいなら、自ら公言する方がましだと考えたのでしょう。この決断は、在日韓国人としてのアイデンティティに葛藤する若き日の彼の苦悩を物語っています。当時、日本名である「湖山」姓を名乗っていた彼にとって、この告白は大きな勇気を要したことだったに違いありません。
高校時代の葛藤
パチンコと青春:高校2年生からの変化
高校1年生の頃は比較的真面目だった許氏。しかし、2年生になるとある出来事をきっかけに、彼の高校生活は大きく変わります。入学当初から淡い恋心を抱いていた女生徒とクラスが別れてしまったのです。
失恋の痛手から勉学への意欲を失った許氏は、毎朝10時前には高校近くのパチンコ屋へ通うようになります。開店時間に合わせて通うという律儀さの中に、青春時代の焦燥感が垣間見えます。
パチンコ屋の常連:若き日の反抗
パチンコ屋では、当時の台の構造を利用した不正行為に手を染めていた許氏。台を蹴って傾斜を調整し、玉の入りを操作する大胆な手口でした。仲間と共にガタイの良さを活かして台を蹴り、店員に見つかれば揉め事を起こすことも日常茶飯事だったといいます。
当時のパチンコ屋の風景や若者文化を想像すると、許氏の行動は一種の反抗であり、閉塞感からの逃避でもあったのかもしれません。飲食評論家の山本益博氏は「当時の若者にとって、パチンコは手軽な娯楽であり、一種の社会への反発でもあった」と指摘しています。
この頃から、後の「闇社会の帝王」と呼ばれるようになる片鱗が見え隠れしていたのかもしれません。パチンコ屋での日々は、彼の人生における大きな転換点だったと言えるでしょう。
許永中氏の壮絶な人生は、まだまだ始まったばかりでした。次回、彼の更なる波乱万丈な人生に迫ります。