幼少期から上皇さまと親交が深かった旧皇族・伏見宮家当主の伏見博明氏。終戦間際の激動の日々、日光での疎開生活を共に過ごした思い出を語っていただきました。平和への願いを胸に、歴史の1ページを紐解きます。
日光金谷ホテルでの学習と交流
1945年3月、戦況が悪化する中、上皇さまは日光の田母沢御用邸に疎開されました。伏見氏は当時中等科生。同級生は山形県鶴岡市に疎開しましたが、伏見氏と李王家直系の李玖氏は、上皇さまの御伴として日光金谷ホテルで疎開生活を送ることになりました。
皇太子時代の上皇さまと美智子さま
ホテルでは、先生によるマンツーマン授業が行われ、伏見氏と李玖氏は勉学に励みました。伏見氏は当時を振り返り、「勉強は大変だった」と語っています。今でも上皇さまに「なぜ同級生と離れて日光に行かなければならなかったのか」と尋ねると、「知りませんよ」と笑って返されるそうです。
授業が終わると、上皇さまは御用邸へ戻られました。伏見氏は豆ご飯を食べていましたが、上皇さまは御用邸で別の食事をされていたようです。
大谷川での釣りとB29の影
授業のない日には、金谷ホテル近くの清流、大谷川で上皇さまと釣りを楽しみました。釣れた魚は調理してもらい、一緒に味わった思い出深いひととき。しかし、ラジオからは連日、東京への空襲のニュースが流れ、不安な日々が続いていました。
日光金谷ホテル
ある日、それまで見たことのないB29が日光上空に飛来。危険を感じた伏見氏と李玖氏は那須へ、上皇さまは奥日光の南間ホテルへとそれぞれ移動することになりました。これが、伏見氏と上皇さまの疎開生活最後の別れとなりました。
玉音放送と皇統護持計画
伏見氏は、李王家の那須の別荘で李玖氏と共に玉音放送を聞きました。天皇陛下の安否を気遣い、不安な気持ちでいっぱいだったと言います。
後に、敗戦直前に皇統を護るため、北白川宮道久王を四国の山中に匿う計画があったことを知りました。伏見氏は、その隠れ家となった場所を何度か訪れており、上皇さまにその話をしたところ、「見に行きたいね」とのお言葉をいただいたそうです。
平和への願い
伏見氏は、当時の緊迫した状況と、上皇さまとの温かい交流を鮮明に記憶しています。戦争の悲惨さを改めて実感し、平和の尊さをかみしめる日々を送っているそうです。 食料事情も厳しかった時代、大谷川で釣った魚を共に食した思い出は、今もなお心に深く刻まれていることでしょう。
この物語は、歴史の教科書には載っていない、貴重な証言です。上皇さまの幼少期を知ることで、平和への思いを新たにするきっかけとなるのではないでしょうか。