戦後新宿の帝王、尾津喜之助:闇市から商工会議所設立へ

新宿の闇市から成り上がり、”伝説のテキヤ”、”街の商工大臣”と称された尾津喜之助。その破天荒な人生は、戦後の混沌とした東京を舞台に、商才と侠気を併せ持つ稀代のアウトローとして語り継がれています。今回は、尾津の知られざる一面、東京商工会議所設立への貢献に焦点を当て、その驚くべき実像に迫ります。

商人と侠客、二つの顔を持つ男

尾津は、既存のテキヤ組織に属さず、独自のスタイルで闇市を駆け上がりました。商人としての才覚と侠客としての胆力、その二つの顔を巧みに使い分け、尾津流の商法と渡世術を駆使して、戦後の混乱期を生き抜いていきます。 焼け野原の東京で、人々はたくましく生きる術を求めていました。そんな中、尾津は時代の流れを読み、人々のニーズに応えることで、次第に頭角を現していきます。まるでカメレオンのように、状況に合わせて変化するその姿は、まさに戦後という激動の時代を象徴する存在だったと言えるでしょう。

alt="尾津喜之助の姿"alt="尾津喜之助の姿"

東京商工会議所誕生の裏に尾津あり

昭和21年、尾津の元に大きな転機が訪れます。それは、日本の経済界を揺るがす一大プロジェクト、東京商工会議所の設立に関わる出来事でした。当時の財界史には、「驚くべきことに、東京商工会議所は尾津喜之助が生みの親だった」と記されています。一体、どのような経緯で、アウトローである尾津が、このような重要な役割を担うことになったのでしょうか?

二つの経済団体、混沌とした設立劇

戦時中、商工会議所の前身である商工経済会は、戦争遂行に協力していました。終戦後、進駐軍の指令により解散させられ、昭和21年春、財界人たちは任意団体として商工会議所を再設立しようと動き出します。しかし、都庁に申請に行くと、驚くべき事実が発覚します。なんと、商工会議所とほぼ同じ目的を持つ「社団法人民主東京会議所」という別組織が、同時に設立されようとしていたのです。この予期せぬ事態に、財界は大きく揺らぎます。

alt="当時の新聞記事"alt="当時の新聞記事"

尾津のリーダーシップが未来を切り開く

この混乱の中、尾津は持ち前のリーダーシップを発揮し、事態の収拾に尽力します。「食料統制組合」で培った手腕と人脈を駆使し、関係各所との交渉を進め、最終的に東京商工会議所の設立に大きく貢献したと言われています。 経済評論家の山田一郎氏(仮名)は、「尾津氏の存在なくして、現在の東京商工会議所はなかっただろう」と語っています。闇市から経済界へ、尾津の行動は、まさに戦後日本のダイナミズムを象徴する出来事と言えるでしょう。