日本有数の高級住宅街「芦屋・六麓荘町」はいかにして生まれたか

兵庫県芦屋市に位置する「六麓荘町」は、日本を代表する高級住宅街としてその名を馳せています。一見すると美術館のような豪邸が立ち並ぶこの特別な地域が、どのようにして現在の地位を確立するに至ったのでしょうか。フリーライターの加藤慶氏の著書『誰も知らない「芦屋」の真実 最高級邸宅街にはどんな人が住んでいるか』に基づき、その知られざる歴史と背景を紐解きます。

「東の鎌倉、西の芦屋」と称された地の特性

芦屋市は、東京都新宿区とほぼ同等の面積を持ちながら、人口約9万2000人と比較的小規模な市です。かつては日本の東西を代表する避暑地として「東の鎌倉、西の芦屋」と対比されるほど、その風光明媚な景観と上質な住環境が高く評価されてきました。この地が高級住宅地として発展する素地は、明治後期から昭和初期にかけて関西圏で花開いた独自の文化、「阪神間モダニズム」によって育まれました。当時の大阪は日本随一の経済規模を誇り、多くの実業家たちが六甲山系の豊かな自然と、目の前に広がる穏やかな海に囲まれた理想的な住まいを求め、この地に移り住み始めたのです。

六麓荘の豪邸。美術館のような外観だが一般の住居。筆者提供六麓荘の豪邸。美術館のような外観だが一般の住居。筆者提供

実業家が構想した「東洋一の別荘地」としての計画的開発

六麓荘町は、特に計画的な開発によってその価値を高めていった高級住宅街です。1928年(昭和3年)、大阪の実業家である内藤為三郎氏らが「東洋一の立派な別荘地にしたい」という壮大な構想を抱き、開発がスタートしました。この開発モデルとなったのは、香港島の白人専用街区であったとされています。

開発当初から、その先進的な都市計画は際立っていました。電柱や電話線は全て地下に埋設され、電柱のない美しい景観が実現されました。また、道路幅は最低6メートルを確保し、一戸当たりの標準区画を300坪(約990平方メートル)以上と定めるなど、ゆとりある居住空間と快適な住環境が徹底して追求されました。これらの厳格なルールは現在も「芦屋市六麓荘町建築協定」として受け継がれ、3階以上の建物や集合住宅の建設が制限されるなど、“豪邸条例”とも呼ばれる独自の規制が六麓荘町の景観と価値を守り続けています。

都会の利便性と閑静な住環境を両立する地理的優位性

六麓荘町が高級住宅街としての地位を不動のものとした背景には、その卓越した地理的条件も大きく寄与しています。芦屋市は大阪と神戸のほぼ中間に位置しており、JR芦屋駅から新快速を利用すれば、大阪駅まで約13分、三ノ宮駅までわずか8分という圧倒的な利便性を誇ります。このアクセスの良さは、ビジネスや都市生活へのアクセスを容易にしつつ、一方で都会の喧騒から隔絶された閑静な住環境を提供することで、多くの富裕層を惹きつけてきました。計画的な開発による美しい街並み、そして利便性と静謐さを兼ね備えた地理的優位性が、六麓荘町を日本有数の高級住宅街へと押し上げた要因と考えられます。

六麓荘町は、単なる住宅街ではなく、先見の明を持った実業家たちの構想と、それを実現するための徹底した計画、そして恵まれた地理的条件が融合して生まれた、唯一無二の高級邸宅地と言えるでしょう。